I'm ALIVE

田上が席に戻ると、堀さんがニヤニヤしながら嬉しそうに近づいてくる、

「どうだった?その顔見る限りおめでとうって言っていいんだよな」

田上は少し気まずそうに、はにかみながら答える。

「そ、そうですね、はい。ありがとうございます」

「なんだよ歯切れわりーな。無事に昇進したんだからもっと喜べよ。今日はお祝いだな、飲みに連れてってやるよ」

「は、はい。ありがとうございます」

田上はチラッとおれの方を見て、そしてまた気まずそうに先輩の方へと視線を戻す。

今年もまた、人事異動で長岡涼の名前はなかった。


「もう会社を辞めよう」

そんな言葉がさっきからずっと頭をよぎっている。もう何度この言葉がよぎったんだろう。若いからまだ転職先はいくらでもある、そう考え続けて気づいたらもう二十九歳になっていた。三十歳まではいくらでも転職できる。誰から聞いたのかもわからないし、なんでそんな事が言えるのかもわからないけれど、なんとなく聞いたこの言葉のおかげというか、この言葉のせいで自分は謎の保険に加入している気がしていた。でも、それもあと一年で有効期限が切れてしまう。

さっき内示を受けた田上は自分の二個下の後輩だ。新入社員の頃は自分が教育担当という事もあり、仕事の事、社会の事、色々教えていた。

入社三年目の自分が、

「どう?もう会社に慣れた?」

なんて自分がまだ慣れているかどうかもわからないのに、偉そうにそんな質問もしていた。

当たり前のように仕事をこなしていたから自分が仕事の「デキない」やつだなんて思ってもいなかった。

きっかけは去年の秋。

同期の堤が気まずそうに聞いてきた。

「涼ちゃん、今度の昇進試験の話って聞いてる?」

「え、昇進試験?なにそれ知らない」

「だ、だよな。おれは年末に昇進試験受けるってさっき人事の福田部長に言われてさ。ま、一応確認というかさ、隠す事でもないからさ」

「そうなんだ、教えてくれてありがとう。頑張って」

言葉だけは冷静だったけれど、胸が鉛のように重く、一瞬で黒に染められたような感覚がした。ありがとうも頑張ってもこんなに軽く使った事なんてなかった。

「きっと自分の事を忘れてて、呼び忘れただけなんだ」自分にそう言い聞かせてたけど、その後自分が呼ばれる事はなかった。

自分の何がいけないんだ?仕事だってミスなくこなしてるし、そんなに素行だって悪くないはず。

「もう会社を辞めよう」

報われない 楽しくもない

気が付けば愚痴ばかり言うようになっていた。

この会社にいても評価される事はない。自分を評価してくれる会社に転職しよう。おれはもっとデキるはずだ。

おれを随分可愛がってくれていた先輩はいつも言っている、

「長岡はなー、大器晩成タイプだから早くに結果が出なくても焦んなよ、絶対にお前は出世するから!おれが保証してやる!」

まあ、そう言ってくれた先輩は早々に転職して行ったけど。保証人がいない今、おれの居場所なんてこの会社にはないようなものだった。


「おれ、転職しようと思ってるんだけど、どうかな?」

長岡の家にはすでに人がいた。二年ほど前に仕事で知り合って、先月プロポーズした仁美。婚約者という事になるのかもしれない。

「え?転職急にどうして?なんでそんな大切な事いきなり言うの?もっと前もって相談してよ!」

「だからいま前もって相談してるだろ?」

「もっと前よ!今の会社に少しでも不満があったならその時からちゃんと相談してよ!」

「お前がいつも忙しそうにしてるから、相談する暇がなかったんだよ!」

つい声を荒げてしまう。最近仁美とはずっとこの調子ですぐ言い合いになってしまう。先週両親に紹介したのが原因であるのは間違いない、だから決しておれのせいではない。

まあ確かにおれの両親はよくわからない宗教団体に所属してる。生まれた時から両親が毎日十八時になると正座をしてお祈りをしたり、毎週土曜日に集会みたいなのに行って、帰りにトマトを家族分三個持ち帰って来るってのは他の人から変なのかもしれないけど、おれにとっては当たり前の日常風景だった。

 

はじめて「それ」がおかしい事だと気づいたのは小学生の時。

おれが席に戻ると、淳平がニヤニヤしながら近づいてくる、

「涼の両親ってどんな人?」

急に質問をされたものが今までの人生でされた事がなかった質問だったから、少しだけ隙間が生まれた。

「どんなって言われてもな、別に普通だけど」

なんとなくだけど両親を馬鹿にされているような気がして、つい強めに答えてしまう。

「普通の親ってトマト行くのか?」

淳平は自分の武器のほうが強いと分かっているからこそ、少し語気を強くしたおれに対しても一切怯まずニヤニヤを続けていた。ついに来たか。いつかは、と覚悟していた事だった。

トマトっていうのは地元にある謎の集会所の名前。誰が何の為に建てたのかもわからない。なんとなくだけど市が建てた公共施設ではないと思う。だってその建物の入り口にはいつも山盛りに盛られたトマトが積まれている。だからいつからか地元の中ではその不気味な建物はトマトと呼ばれるようになった。もちろんそんな不気味な建物に入っていく人なんてほとんどいない。ほとんどいないからこそ、その不気味な建物に入って行く両親を見られたおれは確実にいま劣勢というわけだ。

「…」

「よくあんな不気味な建物に入れるよな。あれ中で何してるの?」

「知らないよ、行った事ないし」

「うちの親が言ってたぞ、『長岡君の両親って何者なの?長岡君ともあまり関わらない方がいいんじゃない?』って」

「うるせーな。じゃあ関わるなよ」

「おー、こっわ。やっぱ関わらないほうが良さそうだな」

ここでおれが両親を敵にして、馬鹿にする側へと回ればおれの人生もう少し生きやすくなったのかもしれない。でも、両親を馬鹿にされて平気な奴なんているのか?

次の日長岡涼が登校して教室に入ると空気が一瞬で変わった。誰かが何かを言う訳ではないけれど教室の全員が一瞬で何か同じ空気を共有する気配。その瞬間胸がきゅーっと締め付けられ、自分のカラダの厚さ以上の胸の深い部分が一気に凍りつく。そして察する。「このクラスにもうおれの居場所はない」

それからクラスで、そして学年で自分とまともに口をきいてくれる人はいなくなった。

おれは両親のせいで友達と学生生活を失った。


それからの人生で何人の事を信じられたんだろう。仲良くなってもきっと両親の事を知られたらまた気味悪がられるんだろうな、そう思うと誰かと仲良くなろうなんて気持ち無くなっちゃうもんだ。

それでも両親を切り捨てる事が出来ないのは、おれが二人の子供だから。理由なんて他にない、それだけ。ただおれがいじめられたり、友達が出来ないのは両親のせいだという事に変わりはない。

それからの人生は、

おれは何か嫌な事があれば「親のせい」

何か怒られたとしても「周りのせい」

いつからか口癖になっていた「おれのせいじゃない」

 

だから、今回仁美と喧嘩した時も「おれのせいじゃない、両親のせい」という盾を持っているおれはやたら強気に出ていた。

「涼っていつもそうだよね。何かあるとすぐに人のせいにして!」

「人のせいにしてるのはお前だろ?結局結婚の話だっておれの両親のせいにして」

「そんな事言ってないじゃん!それに今は自分の転職の話でしょ?なんで転職したいの?どうせ逃げたいだけなんでしょ?」

プツン。

その瞬間頭の中のなにかが切れた気がした。心臓から頭へ一瞬で血が沸いていった。

そして思わず右手に力がこもった。

でもその場にいては仁美に手を出しかねない、かろうじて残っていた自分が自分を律していた。涼はなにも言わずに、ただその場を飛び出した。後ろから仁美の泣いたような声が聞こえた気がするけど振り返るほどの冷静さはとっくにない。


勢いに任せて飛び出した外では電柱の横で大きい猫と小さい猫が二匹喧嘩している。するとすぐに小さい方の猫がおれがいる方とは反対側に逃げて行った。

なんで逃げちゃダメなんだろう?

逃げて怒られるのなんて人間ぐらいじゃないのか?猫や他の生き物達は本能で逃げないと生きていけないのに、どうして人間だけは、

「逃げてはいけない」

なんでそんな答えに辿り着いたんだろう。そんな事を考えながら、おれは”逃げた”。


結局仁美とはそれから別れた。お互いの事が嫌になった訳じゃない。確かに言い合いは増えたけど、それで婚約が破談になった訳じゃない。やっぱりおれの両親が原因だった。どうやら仁美の実家にまで謎の冊子を送っていたらしい、親切に謎の像まで一緒に。そんなのどう考えたって結婚は反対するだろ。おれは両親を心の底から恨んだ。でも、でも嫌いになる事はやっぱり出来なかった。唯一の両親だから。

別れ際、仁美は涼に一言だけ言った。

「人のせいにばかりしないで、これからはいい加減自分の人生を生きてね」

「おれの親のせいで別れるくせに、よくそんなきれい事言えるな」

かろうじて喉に出かかった言葉を必死に飲み込んだ。

なんでおれだけがこうなんだ?おれがなにした?普通に仕事して、普通に遊んで、普通に生きてるだけじゃないか?なんでおれだけがこんな苦しまないといけない?両親の事なんておれにはどうする事も出来ないだろ?

これが生きるって事なのか?なんてキツイんだよ。なんて難しいんだよ。もうこんな思いするなら生きたくねぇよ。

初めて「死」ってのが身近に感じた。

 

長岡涼が勤めているのは新卒時から変わらない都内にある玩具メーカー

課長がおれの所にニヤニヤしながらやって来る。

「長岡さん、この前提出してもらった資料、誤字多すぎますよ。一度確認してから提出して下さいねー、ほんとお願いしますよー」

あえて周りに聞こえるように言ってるんだろうな、そう思った。目の前にいる二人の新入社員は二個下の後輩に怒られているおれを見て、どう思ってるんだろう?まあそんなのどうだっていいや。プライドなんてものはとっくに無いよ。

おれは転職しようと決心してから七年経った今でも結局当時と同じ会社にいる。七年前と同じ役職のまま、同じような仕事を今もしている。今年もいつもと同じように新卒の教育係という訳だ。今年で三十六歳。早いもんだ。

「どう?もう会社には慣れた?」

この質問をするたびに、やっぱりまだおれ自身が慣れてない事に気づかされる。

「ちょ、ちょっとまだ慣れてないです」

「え、ホントー?私はもう慣れてきましたよー」

今年の新入社員は二人。いずれも女性。うちは中小の玩具メーカーだ。売り手市場と言われる今の採用状況で男手はさっさと大手に入社してしまう。今年は初めて新入社員で男性が入社しなかった。だから今年の新入社員の教育は少しいつもと勝手が違った。

池谷香澄はいわゆる典型的な新入社員タイプ。真面目に言われた事をこなすタイプで、おそらくあまり怒られた経験もないだろう。怒るとすぐに泣いて辞めてしまいかねないから、怒るというより優しく諭すように注意しなければいけないタイプだ。

もう一人の森実悠はわかりやすくイマドキタイプ。敬語もうまく使えてないし、化粧も若干濃い。でもこういうタイプは意外と周りに気を遣えるし、飲み会時に上司に気に入られるタイプ。学生時代からたくさん怒られているだろうし、意外にガッツがあるタイプだろうから強めに注意しても、めげないタイプだ。

おそらく森実悠の方が出世するんだろうな。おれは勝手にそんな予想をしていた。

「今日の歓迎会、予約は大丈夫?」

部長が聞いて来る。

「大丈夫です。ちゃんと予約していますから。二次会のカラオケまで予約してます。この前みたいな事にはならないですから」

「それならいいんだけど、涼ちゃんたまにミスるからさ(笑)」

堤はおれのミスを今ではすっかり笑い話に変えている。


去年の新入社員の歓迎会で幹事を任されていたおれは周りを驚かせようと二次会のカラオケまで予約して押さえていた。以前、二次会でカラオケに行こうとした際に、どこもいっぱいで入れず人事の福田部長が機嫌悪くなり、雰囲気最悪で解散となった為、その教訓を活かして先にカラオケ会場まで押さえようというわけだ。

だけど当日全員で揃って一次会のお店に着くと、

「ナガオカ様ですか?本日のご予約はいただいてないようですが・・・」

一瞬で血の気が引いた。たしかに一次会のお店は決めたがその後、二次会のお店を探し始めたから、一次会のお店の予約をしていない気もする。

「あ、あの!そ、そしたら今から二十名入れないですか!?」

「申し訳ございません。あいにく本日は他の団体のお客様のご予約が入っておりまして・・・」

「そこを、そこをなんとか!」

「涼ちゃん、もういいよ。他の店を探そう」

同期の堤がその後、機転をきかせてくれて自分が行きつけのお店にみんなを連れて行ってくれてなんとか事なきを得た。

くそ、カラオケなんて予約しなきゃよかった。元はと言えば福田部長があの時不機嫌になんてなるからいけないんだろ。おれがふて腐れてるのを見たからなのか、

「みんなー!二次会はもちろん行くよねー?おれのデキる同期の長岡がカラオケ予約してくれてるよー!」

堤は出世するべくして出世したんだろうな。


今年こそはと思い、予約は何回も確認したし、なんならお店の下見まで行った。その甲斐あって今年の歓迎会はなに隔たりなく順調だった。新入社員の二人はやっぱり予想通りだった。

池谷香澄はお酒が弱いらしく、飲み物は早々に烏龍茶へとシフトし、周りの酔っ払いからの絡みをわかりやすく苦笑いで受けていた。森実悠もおそらくお酒は飲めないのだろう、さっきからグラスに入ったカラフルな飲み物を手にはしているが全く手をつけていない。だけどお酒を持っているという事でなんとなく周りと同じ空気を共有している感が出ている。周りの絡みに対してもとりあえず満面の笑みで対応している。「すごーい」「さすがですねー」「知らなかったですー」この三枚の手札で周りの酔っ払いを手玉に取るのはさすがとしか言いようがない。

時間がしばらく経って、気がつけば席の端で一人枝豆を食べている子がいる。ここで嫌な思いをさせて辞められたらおれに責任がくる。

「池谷さんはあんまりこういう場、好きじゃない?」

「あ、長岡さん。いや嫌いではないんですけど、やっぱり慣れなくて。なに話したらいいかわからくて」

「まあそうだよね。周りは酔っ払ってなに言ってるかわからないしね」

「いや、えっと。その・・・」

池谷香澄はわかりやすく困っていた。

「池谷さんは何色が好き?」

気まずい空気に耐えきれずとりあえず場をつなぐ為に適当な質問をしてみたけど、さすがに適当すぎた。池谷香澄はわかりやすく困っていた。


「じゃあ私トップバッター行かせていただきまーす!」

二次会のカラオケに着くと森実悠はいきなり「タッチ」を歌い始めた。つくづくこの子は凄いなと感心する。職場のカラオケはトップバッターが一番気を遣う。トップバッターの選曲と歌の上手さでそのカラオケの雰囲気は全て決まると言っても過言ではない。いきなり年長者がもろ世代を露呈する選曲をしては若者が萎縮してしまうし、その逆もまた然りで若者がイマドキの歌を歌っても、年長者が乗れずに盛り上がりに欠けてしまう。その点森実悠の選曲は満点だ。全員が知っている曲で、全員で盛り上がれる。歌も上手いようで若い女の子特有の謎の可愛らしさでみんながノリノリになっている。ここでも端にちょこんと座っている池谷香澄も何か曲を入れようとしている。こういう場面で曲を入れるタイプには見えなかったから少し安心した。ここでも自分が気を遣って話しかけてさっきみたいに困らせたくなかったから。

森実悠の出番が終わると、場はかなり盛り上がっていた。そこで池谷香澄の入れたイントロが流れ始めた。

「もしもはなくて」

その曲を知っている人は残念ながら誰もいなかった。一体なんの曲を入れたんだ?気になって見てみると、「さぁ鐘を鳴らせ」と出ている。歌手はドリカム。「ドリカムなら他になかったー?」みんなが同じ空気を共有していた。

「さぁ鐘を鳴らせ ちからふりしぼれ〜」

そんな空気は構わず池谷香澄は気持ち良さそうに鐘を鳴らしていた。


「じゃあお疲れさん!みんな気をつけてねー。また来週!」

堤がカラオケ後をきれいに締めて解散した。帰りの電車の方向が同じだった池谷香澄と二人で電車に乗っていた。

ティファニーブルーが好きです」

「え?」

「え、好きな色です。さっき長岡さんに聞かれたじゃないですか?好きな色。ティファニーブルーが好きです」

この子はもしかしたら天然なのかもしれない。好きな色でティファニーブルーって答えるか?普通女の子ならとりあえずピンクとか赤じゃないのか、そんな勝手な事を思いながら聞いていた。

ティファニーブルーってどんな色?」

「うーん、青というか緑がかった青というか。伝えるのが難しいですねー。あの色はティファニーブルーとしか言えませんねー。あ、パントーンカラーの『一八三七』って言えば伝わりますか?」

「いや伝わんないよ(笑)」

パントーンカラーとは世界共通の色の番号の事で仕事上、取引先に色を伝える際に便利だけど、日常会話で使うとは思わなかった。

「てか、自分に好きな色わざわざパントーンカラーで覚えてるの?」

「違いますよ!でもティファニーブルーの一八三七はすごく覚えやすいんですよ!一八三七ってティファニーの創業した年なんです!素敵じゃないですか!?」

池谷香澄がこんなによく喋る子だとは思わなかった。そして意外に天然なタイプなのかもしれない。普段は真面目で大人しくて口数も多くないのに、実はよく喋る性格で、天然。そのギャップに少し惹かれ始めていた。

ティファニーはやっぱり女の子なら憧れますよねー」

彼女はそんなおれの気持ちをよそにひとりで話し続けている。


それから仕事中も池谷香澄の事が気になって仕方がなかった。可愛らしいお菓子があると、インスタのいいね欲しさにインスタ映えを意識しながら写真を撮る森実悠の方が会社では重宝されるかもしれないけど、そんなお菓子でもお構いなしに大口開けて一口で食べてしまう池谷香澄の方がおれには魅力的だった。


半年も経つとおれの教育期間は終わり、二人はそれぞれ自立して働き始めた。そんな矢先に池谷香澄から告白された。

「え?おれ?」

正直最初はハニートラップか何かかと思った。でも一瞬でおれにはそんな妬まれるような地位がない事に気がつく。

「な、なんで、おれ?」

「長岡さんといると安心できるんです。なんでも話せちゃうし。職場恋愛ってダメですか?」

「い、いや、ダメじゃないと思うけど、なんていうか歳もひと回り違うし、社内の人にバレたら何かと・・・」

「別によくないですか?周りの目なんか気にしなくても。年齢は私気にならないですし、職場恋愛も禁止じゃないんですから、バレても問題はないですよね?別に他の人達にどう思われても悪い事してるわけじゃないじゃないですか?ね!だから付き合いましょうよ!」

正直断る理由はなかった。まあ告白してきたのは彼女の方だ。何かあっても大丈夫だろう。

こうして僕らは付き合い始めた。


付き合い始めの頃は上手く社内で接する事ができるか不安だったけれど、初めての社内恋愛は順調だった。社内に恋人がいるという状況は自分にとっては良い環境かもしれなかった。もともとカッコつけ気質のおれは、香澄の前で怒られないように資料提出の際などは念入りに確認する癖がついたし、何より職場に恋人がいるというのはそれだけで強いモチベーションにつながっていた。

付き合い始めてひと月ほど経過した時、いつものように外食をしていると香澄の方から意外な事を言われた。

「涼さんって結婚とか考えてます?」

その瞬間一気に血の気が引いて、一瞬であの瞬間にタイムスリップした。

「人のせいにばかりしないで、いい加減自分の人生を生きてね」

仁美に言われてあの一言が鮮明に再生される。

「結婚?い、いやまぁ考えてない事もないけど」

「なに、その煮え切らない返事?笑」

「いや、おれはもちろん結婚したいけどさ、香澄の事考えるとさ。だって香澄はまだ若いんだし、もうちょっと自由でいた方が香澄の為だとも思うし。そんなに急いで結婚とか決めなくてもいいのかなって」

「私のせい?そんな都合よく私を結婚しない言い訳に使わないで欲しいなー笑」

「え?」

「今の返事って私のことを思っているように聞こえるけど、本当は私のことを思ってるフリして、都合よく言い訳に使ってるだけなんだよなー。まっ、いいや!そんなに年齢の事気にするんだったらカラオケ行こ、カラオケ!」

「カラオケ?なんで?今から?」

「涼がいつまでもウジウジ年齢の事ばっかり言ってるからー。カラオケってなんだかタイムマシンみたいじゃない?その曲を歌ってるだけでなんだか自分の気持ちまで当時に戻ってるみたいというか。だから部長とか年配の人達ってカラオケ好きなんだろうな。歌ってる瞬間は当時に戻れるような、そんな錯覚がするからね。だから今日カラオケ行くの。同じ時間にタイムスリップしようよ」


「なんでも受け身なのがよくないんじゃないかな?涼は」

「受け身って何が?」

「なんでも受け身の姿勢だから涼はすぐに人のせいにしちゃうんじゃない?人のせいに出来ちゃうというか。私たちが付き合った時も私が強く言わなきゃ付き合わなかったでしょ?だからこれからは自分から動いてみたら?」

会話の途中で、香澄の見た目には似合わないアップテンポのイントロが流れ始めた。

香澄と初めてカラオケに行った時も彼女は自分なりの選曲をしていた。周りの目なんて気にしないで。彼女はいつでも彼女らしく自分の生き方を貫いていた。そんな彼女が入れていた曲は「I'm ALIVE」、歌手はMs.OOJA。自分らしく自分の歌いたい曲を歌う。彼女らしかった。

 

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報われない 楽しくもない

気付けば愚痴ばかり


結婚とか 仕事だとか

人それぞれだもん


言い訳ばかり

本当は分かってる

逃げてるだけじゃ

本当の明日は来ないこと


止まらないで このままじゃ終われない

まだ見ぬステージ 無限の野望を胸に

一度の人生なら 泣いても笑っても

顔を上げて 覚悟して 進め

I'm ALIVE


やるときゃやる タイプだとか

大器晩成とか


インドアとか 根暗だとか

人見知りなんだもん


言い訳ばかり

本当は変わりたい

殻を破れば

傷つくこともあるけど


止まらないで このままじゃ終われない

まだ見ぬステージ 無限の野望を胸に

一度の人生なら 泣いても笑っても

顔を上げて 覚悟して 進め

I'm ALIVE


止まらないで このままじゃ終われない

まだ見ぬステージ 無限の野望を胸に

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香澄は歌い終わると気持ち良さそうに、烏龍茶を飲んでいる。

「はー、やっぱこの曲最高!ライブとかで聴くとめっちゃ盛り上がるんだから、この曲!」

「香澄」

「ん?」

「ありがとう」

 

四月の始まりはまだ肌寒くて、春と呼ぶにはまだほど遠いような気もする。季節にちゃんとした境目なんてないんだろうけど、前を歩いているピカピカのリクルートスーツの子達を見てると、それでも今日はきっと区切りの日なんだなって思う。

みんな今日から生まれ変わるんだ!

おれは今パントーンカラー、一八三七の色に包まれた箱を胸ポケットに忍ばせている。

本当はわかってた。おれは周りから逃げてたんじゃない。おれはいつも自分から逃げてた。親だったり、周りのせいにしてたけど、本当はわかってる。自分が傷つきたくないから、自分を守るためにいつもおれは言い訳をしてた。

でも、

おれはもう自分の人生を生きる。

九月十八日、彼女の大好きな色が生まれた日に教会のベルを鳴らすんだ。

さぁ鐘を鳴らせ

がんがん打ち鳴らせ