真珠の耳飾りの女

 「先日提出していただいたプレゼンの資料ですが、専門用語が全体的に多いです。相手はファッションの素人という事を加味して月曜日までに修正お願い致します。 加藤」

日曜日の14時、半袖でも過ごせるような気温の中でダガヤサンドウと呼ばれる千駄ヶ谷北参道の中間地点で会社の同期と買い物を楽しんでいた時、上司から着信があった。休日という事で無視すると30秒後にさっきのLINEが届いた。

「え、もしかしてまたアイさんから?うげー、真子も大変だねー。私だったら絶対耐えらんないよー」

同期の清華は大袈裟に舌を出して私に同情をする。結局その後の買い物は私がうわの空だったからか、自分の話を聞いていない私に嫌気がさしたのか、清華の方から夕方ぐらいに解散を提案してきた。いつもは夜のご飯まで一緒に食べるというのがお決まりなのに。まるで小学生のような遊び方だった。まあ正直早め解散は私にとっても有り難かった。


 家に帰るとご飯もそこそこに早速加藤さんに指摘された箇所を修正する。金曜日に資料を提出した時は「私たちはプロですよ?素人じゃないんですから」と言われた。だから専門用語をあえて多くしたんだけどなぁ。まあそんなのは彼女には関係ない。


 加藤珠美。39歳。課長。独身。

そんな彼女の下に配属されたのは今年の春の辞令での事。みんなからは「ドンマイ」とか「アイさんの下かー、ついてないね」、「辛かったら飲みに行こうね」と様々な同情の声をかけられた。私はその意味がイマイチわからずピンときていなかったが、それはすぐにピンときた。

「大越さん、今お時間よろしいですか?」

「あ、はい」彼女は年齢問わず、誰振り構わず全員に対して均等に敬語を使う。どんなに相手が歳下であっても必ず丁寧な敬語を使う。そう、機械のように。

「大越さんに先日提出していただいた資料なんですが、数字についてお伺いします。日付部分が全角なのに対して、本題部分が半角になっているのですが、これは特別な意味がありますか?」

どうでもいいー!そんなの読めればよくない?相手が意味を理解できればよくない?という言葉は心の中で呟き、

「あ、いえ、すいませんでした。修正します」と呟いた。

「そうですか、わかりました。早めに修正資料下さい」

そう言って彼女は何事もなかったかのように席に戻りパソコンに向かい合った。


 「てかそんなの気にする?」私はその日のランチで同期の清華に愚痴る。

「まあまあそんなの序の口だよ。一個上の石井さんなんて、訂正の二重線を定規使わないで訂正しただけでめちゃめちゃ怒られたらしいしね。本当そんなのよく気づくよね。だからみんな言うのよ、アイさんて」

AIのような人工知能が頭に入っている、そんな皮肉を込められて加藤さんはみんなから陰でアイさんと呼ばれていた。でもみんなが影でしか加藤さんの事を悪く言えないのは、加藤さんが正しいからだ。日付部分と本題部分が半角と全角になっているのは間違っているし、訂正の二重線も定規を使うのが正しい。正しい事を言っているだけなのに批判されてしまう加藤さん、感情をもっと出してくれたらやりやすんだけどなぁ。


 「課長、先日はすいませんでした。これ、修正した資料です。確認お願いします」

「ありがとうございます。確認しておきます」

相変わらずのオペレーター感。まあ加藤さんの下にきてから3ヶ月。彼女の冷たさには慣れてきた。

今さっき加藤さんに提出した資料は入社5年目の私の中で一番の大きな仕事だ。大手商社が今年新たに始めるアパレル新規プロジェクトとして数社に声がかかり、明日コンペを行う。そしてそのプレゼンは社内の若手数人でチームが組まれなんと私はそのリーダーに任命されている。チームには責任者として一応加藤さんもいたが、「若い人が中心になった方がいいと思います」と言って、私をリーダーに任命した。入社5年目でこんな大役、だから私は何としても明日のコンペを成功させたかった。プレゼン資料なんかよりも、いかに堂々と振る舞えるかが心配だった。


 翌日のコンペ、結果から言うと私たちは負けた。誰が悪いとかじゃない。ただ単純に実力で負けたような気がした。言い訳なんてしたくなかったけど、やっぱり若すぎたのかもしれない。みんなが泣いていたのが悔しかった。こういう時にリーダーの私がみんなを励まさないといけないのに、私はみんな以上に泣いていて励ます余裕なんてなかった。とにかくみんなが泣いていた。ただひとりを除いては。


 「あの状況でひとり黙々と片付けなんてできます!?」反省会という大義名分の飲み会で、プレゼンチーム最年少の実悠が赤い目でみんなの共感を誘う。

加藤さんはコンペで負けても、私たちに声をかける事もなく黙々とひとりで後片付けをしていた、ただ黙々と。私たちが泣いてる間もずっとひとりで後片付けをしていた。だから私たちの悲しみや悔しさが落ち着いた頃にはすっかり後片付けも終わり、その光景が余計寂しくもあった。

「お疲れ様でした。これで今日は飲みにでも行ってください」

加藤さんはそう私にだけ聞こえる声で呟き、あまり膨らみのない封筒を私に渡し、何事もなかったかのように会場を後にした。

「てか何が責任者ですよね!結局何もしないで責任はほとんど大越さんになすりつけてますよね!ほんとひどい!」実悠はよっぽど悔しかったのだろう。愚痴が止まらない。


 翌朝、ひとまず昨日の飲み会代のお礼を朝イチで加藤さんに伝えなければと思いながら、トイレに寄るとそこには加藤さんがいた。鏡の前で綺麗な真珠のピアスをつけようとしている最中だった。

「お、おはようございます」

「おはようございます」

「き、昨日はありがとうございました。みんな落ち込んでましたけど課長のおかげでなんとか吹っ切れたようです」

「そうですか、それなら良かったです」

そう言って、課長はトイレを出て行った。

加藤さんがあんな派手なピアスをするなんて、もしかして今夜デートでもするんだろうか。今日のランチの話題はもう決まりだ。


 「えー、あのアイさんにデートする相手なんているのー!?焦るー!私たちもこうしていられないよ。今日合コンしよ!合コン!」

「え、今日!?流石に無理でしょー」

私と清華はさっそく今朝のトイレの話題で盛り上がっていた。お昼時にトイレの話題で盛り上がっている女と今夜合コンしてくれる心広い紳士なんているのだろうか。

「あ、でも一回見たことあるな、アイさんが真珠のピアスつけてるとこ」

「え、いつ?」

「んーいつぐらいだったかな。私たちが2年目ぐらいの時じゃないかな。あー思い出した。結構話題になったよ、あの時。アイさんと同じく女性の出世頭でさ、アイさんと同期のなんだっけ、あ!森さん!」

「あー!森さん!懐かしい」


 森さんは加藤さんと同期で、社内で女性の出世頭を争っていた。社内でもどっちが先に女性初の役職につくんだろうと話題になっていた。森さんは美人だし、仕事もできて、後輩の面倒見も良く、趣味も豊富だった為、社内人気は圧倒的に森さんだった。言ってしまうと加藤さんとは真逆のような人に見えた。バチバチな関係なのかと思っていたけど、たまに2人でランチに出掛けたりしているところを見たことがあるという人がいるから、意外に仲はいいんだなと思っていた。そんな矢先にいきなり森さんが退社すると朝礼で発表された。朝礼で退社の挨拶をする森さんは涙ぐんでいた。両親が倒れてしまい、実家に戻らなければいけなくなったとの事だった。あまりに急な別れだった為社員のほとんどが泣いていた。ただひとりを除いては。

 その翌日加藤さんは今まで見たこともない、真珠のピアスをつけてきた。社員のみんなは驚いていたけど、あまり良い印象ではなかった。

「ライバルがいなくなった途端、なにアピールだよ」「これからの時代は私の時代とでも言いたいのかな」「これから出世する自分へのご褒美か?」

いろんなことを言われていた。そして数日後、加藤さんは周囲の声をよそに女性として初めて課長の役職についた。

 「あの時は驚いたなー、化粧っ気もないアイさんがいきなりピアスつけて来るんだもん。しかもどれくらい着けてた?1週間ぐらいずっと着けてたんじゃない?もうどんだけアピールしたいんだよって!」

「えー、じゃあまた1週間ぐらい着けて来るのかなー?」


 コンペで負けた2日後の木曜日、私は親に言われ無理やり親戚の告別式の為に実家の新潟に帰っていた。正直お年玉を貰った記憶も定かでない親戚の告別式にあまり悲しみはなくコンペで負けた時の方がずっと悲しかった。実家で告別式に向かう支度をしていると母親が真珠のネックレスを着けている。ついこの前見たような真珠だ。

「え?告別式行くのにお洒落なんてしてくの?」

「そんな訳ないでしょ!あんたはもう。真珠はね、『涙の象徴』なのよ。人魚の涙が真珠になったとも言われてるんだから。だから『涙の象徴』と言われる真珠を身につける事で、故人への敬意を表すのよ。あんたこれぐらい常識だから覚えておきな」

「『涙の象徴』か」

「あらやだ、あんた、真珠のアクセサリー一つも持ってないの?まったくもう。お母さんのお下がりでよければあげようか?」

「いや、大丈夫だよ」


 次の日、朝イチでトイレに向かうとそこにはやっぱり加藤さんがいた。今日も真珠のピアスをつけようとしている。

「おはようございます!」

「おはようございます」

「課長、ひとつ質問してもいいですか?」

「トイレでですか?まあ大丈夫ですよ」

「課長はどんな時に泣くんですか?」

「え?」

加藤さんは明らかに戸惑っていた。ほんの少しだけ彼女の感情が見えた気がした。

「そうですね、少なくとも悲しい時には泣かないですね」

「え?」

今度は私が戸惑っていた。

「大越さんは、『真珠の耳飾りの少女』ってご存知ですか?」

「え?真珠の耳飾りの少女ですか?あの有名な絵ですよね?作者はちょっと思い出せないですけど、ゴッホだか誰かが描いた青いターバンを巻いた女の子の絵ですよね」

「そうです。正しくはフェルメールが描いたんですけど。あの絵の少女ってどんな気持ちだったんでしょうね。私小学校の時に初めてあの絵を見てピンときたんです。『この子は耐えてる。泣くのを耐えてる』って。絵だから感じ方は人それぞれなんですけど、私はそう感じたんです。モナリザと同じように微笑んでいるって人もいるけど私にはどうしても笑ってるようには見えなくて。背景は真っ暗だし、無理やり口角を上げて笑ってるように強がってるんじゃないかなって。涙の象徴とされる真珠の耳飾りを着ける事で泣くのを耐えてるんじゃないかって。それがすごくかっこよく見えたんですよね。すごく。女の意地っていうか。だから私も彼女を見習って悲しい時にそのまま泣くのはやめようって」

「あ、質問の答えになっていないですね。だから私は嬉しい時にだけ泣きますよ」

「あの、課長、ひとつお願いがあります」

「何ですか?」

「その真珠のピアス、私にいただけませんか?」

「え?」

その時初めて彼女が笑った気がした。