NEW DAY

「なんか仁美雰囲気変わった?」

「え!まさか彼氏!?」

瞳の急な質問に思わず言葉が詰まる。

「もしかしてこの前言ってた年下くん?」

新発田くんの事を思い出すと、ついニヤけてしまう。

「え、うっそ!付き合ったの!?すごいじゃん!おめでとう!!」

私は一言も喋ってないのに、瞳は一人で会話を進めている。

新発田くんには綺麗に振られたよ」

「え!?振られたの!?てか、仁美が告白したの?」

「う、うん」

「えーすごいじゃーん!あの仁美が、告白できるようになるなんて」

振られたのに、人に喜んでもらえるなんて経験そうそうできないだろう。でもたしかに昔の私からしたら、自分から告白出来るようになるなんて思いもしなかっただろうな。だって今の自分だって信じる事ができない。

新発田くんと初めて二人で飲みに行った夜、やっぱり新発田くんからはお別れを告げられた。

「今までお世話になりました。稲中さんには本当にお世話になったのでちゃんと言わなくちゃって思って」

そういうところ。あなたのそういう律儀な所が大好きなんだよ。そうは言えなかったけど、私なりに気持ちは伝えられた。上手く伝わったかはわからない。それでも新発田くんはただ「ありがとうございます」と、無邪気な笑顔でそう答えてくれた。そして旅立った。

「えー、なにそれ。それって本当に振られたの?」

「わかんない。わかんないけど、もういいの。この恋はおしまい!早くこの恋は忘れるの!頑張って忘れて…」

「忘れなくていいよ!」

瞳からそんな大きな声が出るとは思ってなくて、私は一瞬なにが起こったのかわからなかった。

「忘れなくていいよ!好きなんでしょ?まだ好きなんでしょ?それなら仕方ないじゃん!付き合うだけが全てじゃないよ。その人の事こんなに好きになれたんだって誇りに思いなよ。そんなに好きだって思える人がいるって当たり前じゃないし、素敵な事だよ。大丈夫。忘れられる時がきたらポッと忘れるよ。何が原因とかじゃなくて、自然にポッと。忘れる時がきたぞ〜って」

「…そっか。ありがとね」

「ここにいるよ」

「え?」

「それに、私はいつでもここにいるよ。どこへも行かず、ここにいるよ。仁美の味方はいつだってここにいるんだからね!」

二人の間をしんみりとした空気が流れる。

「やだー!こんな空気になるなんて思わなかったー。で、なんでさっき仁美は嬉しそうな顔してたの?」

「実は私の好きな歌手のライブチケットが当たってさ!」

「え、それってMs.OOJA?仁美の影響を受けて私もすっかりハマっちゃったんだよー。いいなー、羨ましい」

「ほんと!?実はペアチケットだから一緒に行く人探してたんだ!」

「まじ!?行く行くー!!」

今も変わらず 一緒にいる

今も変わらず 笑い合う

こんな当たり前の事が本当の奇跡でしょう


半乾きの洗濯物を仕方なく家の中に取り込んでいると、台所のほうから香澄がいつもより高めの声で自分の名前を呼ぶ。しまった、あのトーンで呼ぶ時はおれが何かミスをした時だ。

「おーい!まさかもう洗濯物取り込んでないよねー?今日の天気予報ちゃんと見たー?」

天気予報なんて見なくたって、外はすっかり灰色に染まっている。どう考えてもこれ以上外に出し続けても洗濯物に乾く見込みはない。あれからおれは香澄と結婚した。香澄はこんなおれのプロポーズを受けるととびっきりの笑顔で受けてくれた。そしてそれからおれは仕事も順調で無事に出世して子供にも恵まれ・・・、とまぁ普通小説なら主人公はこんな感じで一気に輝かしい生活を送り始めるんだろうけど、残念ながらこれは小説ではなく、ただのおれの人生。そんな上手くはいかない。香澄と結婚してからもおれはさえないサラリーマンのまま。

ただ、おれはようやく自分の人生を歩き始めたと思う。”ただのおれの人生”を。

やっぱり出世にはほど遠かったし、香澄達の下の代の子達が入社してきてもおれはやっぱり教育担当のままだった。でも最近気づいたことがある。それは、おれはおれという事。

どんなにないものねだりしても、無い物は無いし、どんなに願ってもおれはおれにしかなれない。

ずっとおれは親のせいとか、人のせいとか、周りの環境のせいにして生きてきたけど、結局目の前にある現実って、全部過去の自分が選択してきた結果なんだって気づいた。

今までおれにたくさんの悲しい出来事が起こってきた。結婚間近だった仁美から、親を理由に別れを告げられた。あの時おれは親のせいにしておれの前から出ていく仁美を追いかける事はしなかった。でも本当に仁美の事を思っているならそんな事関係なく、なりふり構わず追いかけることだってできたはずだ。親のことなんて気にしないで、そんな事よりもおれは仁美が好きだ、だから一緒にいてほしいって言えなかった。というよりおれがそうしなかった。あれは他の誰のせいでもない。紛れもなく、おれのせいだ。

だからもう同じような後悔は絶対にしないと決めた。


きっとおれの人生に綺麗な虹はかからないかもしれない。

「今日は良い天気だよ!くもりときどき晴れだってさ!」

「それって良い天気なのか?最初っから晴れてたほうがいいだろ」

「最初のくもりを知ってるからこそ、後の晴れのありがたみを感じられるじゃん。いきなり完璧に晴れてるんじゃありがたみないもん。天気でもなんでも足りないくらいがちょうどいいんだよ」

くもりときどき晴れか。意外とそんなに悪くないかも。

「あ、そういえばこの間応募したMs.OOJAのライブチケットあったじゃん?」

「うん!え!どうだった?当たった!?」

「いや、外れたよ。でも足りないくらいがちょうどいいよな」

「…。それとこれとは話がべつー!」

足りないくらいがちょうどいい。


「おもちゃにもきっと感情ってあると思うんです。だからおもちゃの感情を可視化する事が新しい教育にもつながると思います!」

月に一度の会社の会議で入社二年目の女がいきなり突拍子もない事を言い出した、ディズニー映画の見過ぎだろ。

そんな空気が会議室全体に立ち込めていた。

「あー、たしかにそれは良いかもしれませんね!おもちゃに愛着を持てば粗末に扱う事もなくなるし、なにより新鮮です」

長岡さんだ。私が入社したばかりの頃に教育担当をしてくれていた長岡さんはわかりやすく頼りない人だった。後輩にも出世を越されていて、覇気の感じられない先輩だった。そんな先輩が同期の香澄と結婚すると聞いた時は驚いたけど、それ以上にそれからの長岡さんの変わりようにも驚いた。周りの評価はまだイマイチだけど、私の中ではかなり信頼している。

「たしか海外の会社にモノのエネルギーを可視化する機械を作った会社があったはずだから、その機械がうちのおもちゃにも反応するか試してみませんか?」

長岡さんがそう言うと、全体の雰囲気がなんとなく賛成の空気へと変わった。

「長岡さん、フォローありがとうございます!」

「そんなフォローなんて。ただ森さんの意見が良いと思った、それだけだよ」

白シャツに、デニムという男ウケのしなそうな服装が私のユニホームのようになってから、

変わったのは服装だけじゃなかった。私はもともとアナウンサー志望だったけど、その夢が絶たれた後になぜおもちゃメーカーに入社したのか、私なりに考えた。

私はもともとおもちゃが大好きな子供だった。

子供はもちろんおもちゃが好きなんだけど、それ以上に好きな自信がある。

「なんでこんなにおもしろいんだろ?」

子供ながらにすごく不思議だった。お母さんに理由を聞いても、

「遊んでる暇があるなら勉強しなさい」

ただそう言われるだけ。だから私はいつからかおもちゃへの好奇心を捨てて、気がついたらお母さんが喜ぶようにおもちゃを手離し、勉強に打ち込むようになった。

それでも一つの失恋をきっかけに、周りからの視線を気にするのをやめてみた。自分が「いいね」と、そう思えればいいと思った。世の中思い通りに行かない日も、人とぶつかる時も数えきれないほどあるけど、それでもその度に何度でも乗り越えてこられたのは幼い頃に描いた夢があったからだと気づいた。

「私はおもちゃが大好き」

これが私らしさなんだって気づけた。

たしかにアナウンサーになる事が私の理想ではあったんだけど、

遠く見える理想よりも 大事なものがそばにあること

どうして人は いつだって 忘れてしまうのかな。

あれから私は彼氏も出来た。年収はそんなに高くないし、顔もそこまでカッコよくはない。理想とはかけ離れているけど、私の事を褒めてくれる。

え、そんな理由?

って思うかもしれないけど、私は今まで男性に褒められるって経験があまりなかった。初めて今の彼に褒められた時、とっても嬉しかった。

だって、たった一人の”いいね”があれば、いいんだもん。

「私好きな歌手がいるんだ!友達に教えてもらったんだけどMs.OOJAって言うんだけどね、すっごい心に染みる歌を歌うの!でね!なんと、その人のライブチケットが当たったの!すごくない!?今度一緒に行かない?」

Ms.OOJA?ごめん、わからないな。実悠が好きっていうんだからおれもライブに行ってみたいけど、せっかくならそのお友達と行ってきた方が二人とも楽しめるんじゃないか?おれが行くのはなんか申し訳ないよ」

こういう相手を思いやってくれる所も好きだ。

「わかった、そうするね!」

このチケットは香澄と長岡さんにあげるか。

これは私から二人へのご祝儀だ。


「今日も元気にお過ごし下さい」

由美はいつからか当たり前のようになってしまったコメントで番組を締めると、番組はすぐに次の番組へと変わった。

この日の由美にいつもの笑顔はなかった。

「今日も元気にいってらっしゃい!」

ステイホームという言葉が、国民の合言葉になり始めると、「いってらっしゃい」という言葉は不謹慎だ、というクレームが来てからお決まりのセリフは自粛となった。だからか、私は最近落ち込みやすくなった気がする。

由美はいつからか自分のお決まりのセリフに元気をもらうようになっていた。いつも自分の周りの大切な人や、視聴者の方々を想いながらこのセリフを言うと、不思議と自分も元気が出てきた。応援って気づいたら、応援してる側も応援されてる気分になるから不思議だ。

テレビ業界も自粛ムードが広がり、新しいロケ撮影は行えず、今までの放送の総集編を流したりする事でなんとかその場をしのいでいるような状況が続いていた。

そして今日の放送では「ナカユミ迷言集」という総集編が放送された。自分で言うのもなんだけど、私はよくコメントを噛むし、言い間違える。

「頑張っていきましょう!」を「頑張っていきまっしょい!」と言い間違えた事、

「今日も元気にいってらっしゃい!」を「今日も元気にいってきます!」と言い間違えた事など、他にも様々な私の言い間違いが紹介された。

そういう間違いの後は上司に怒られるし、少なからず視聴者の方からお叱りの意見も届く。

当たり前だけど、怒られたらへこむし、落ち込む。

「アナウンサーなのに言い間違え多すぎ」

「アナウンサーなのに噛みすぎ」

「アナウンサーなのに少し声が低い」

自分に甘えるわけじゃないけど、世の中のイメージ的に「アナウンサー=完璧」という風に映ってるらしく、一切のミスが許されない。

まぁそれはしょうがないにしても、「声が低い」に関してはなかなかへこむ。

だって変えようがないし、それは私のコンプレックスでもある。あんまり人に言ってほしくない所だけに落ち込んでしまう。

番組の感想というのは番組直後に殺到する。メールだったり、Twitter、インスタ、様々な媒体で寄せられる。私はそれがありがたいと思う反面、少し怖いと思う時もある。

「今日は何も言われないかな」

そんな恐怖を抱えながら、私は番組終了後、一時間ほど仮眠をとる。


仮眠を終えると、やはりたくさんのコメントが届いていた。はっきり言って今日は私の今までのミスの特集だ。正直どんなコメントが届いているかは大体予想がつく。

「アナウンサーなのにあんな間違えて恥ずかしくないですか?」

「なんでアナウンス力不足なのに堂々とテレビに出られるんですか?」

はぁ、落ち込む。へこむ。

「ミスしても可愛い!元気が出ます」

「いつも明るく中島さん、ミスもおもしろいから好きです」

あれ?

「いつも天真爛漫なナカユミ!今日も笑顔をありがとう」

「自身も自粛疲れがあるはずなのに、疲れた顔を一切見せないところ尊敬します」

「いつも一生懸命なところ大好き!」

「コロナの影響でみんなの気持ちが沈みがちだけど、朝からナカユミ観ると元気が出ます!」

いつもネガティブなコメントしか目に入ってなかった。でもそれ以上にポジティブなコメントが、溢れていた。

過ちを嘆いてばかりいる私を、いつもみんなが温かく見守ってくれてるんだ。そう気がついた。


街を染める夕暮れをずっと、足を止めてぼんやり見つめてた。

この声で届けよう、がむしゃらなままでいいんだ。不器用なままでいいんだ。

それがみんなの悲しみをさらってくれるなら。

下手だっていいんだ、この声の限り。

私だっていつもMs.OOJAさんの歌に元気をもらってる。来月のライブを楽しみにまた頑張ろうっと!


今日もまた一日が始まる。辛い日になるだろうな。なんとなく想像がつく。新型コロナウイルスが感染拡大してから想定外のハプニングがあまりにも続いた。

私は今のスタイリストという地位を捨てて、自らのブランドを立ち上げる事にした。ブランド名は「fleur」、フランス語で「花」という意味。中島アナウンサーから教わった歌を聴いてから私は自分の名前が好きになった。もちろん不安もあるし、怖さもある。

なんで人って、新しい事を始めようとする時って必ず怖くなるんだろう。

でも今だけは信じてみようと思う。あの日心でふと生まれた「自分のブランド」を立ち上げたいと思った、その想いを。

花のように、

咲き誇るように。

山田花はMs.OOJAの歌の言葉たちを思い出している。


ブランドを立ち上げるという話になった時、最初こそ苦戦したもののしばらく経つと予想以上のスポンサーが集まってくれた。それぐらい今や「山田花」という存在は大きなブランド力を持っていた。スポンサーも多く集まり、かなり順調な滑り出しだった。


しかし想定外のハプニングが起こった。新型コロナウイルスの感染拡大が始まったのだ。それまでは順調に進んでいた商談も一斉に話がストップし、スポンサーを降りたいという企業も後を絶たなかった。

「日頃の行いが悪いからだ」

「急に天狗になって調子に乗るからだ」

「自分のブランドを立ち上げるなんて、そんな無謀な事するからだ」

ひどい事を言われて、私の気持ちは折れかけていた。下を向いている私に一人の女性が声をかけてくれた。

「花さん!大丈夫ですって!まだいけますって!笑われたっていいじゃないですか。この局面を踏ん張って、ちゃんとブランド立ち上げて、これだけ出来るって事を見せてやればいいじゃないですか!」

加藤さんだ。そう、彼女だけが唯一私に付いてきてくれた。正直前のスタイリスト時代にアシスタントとして支えてくれてた彼女が私に付いてきてくれるなんて思ってもみなかった。トイレで私の悪口や愚痴を話しているのを聞いたこともあった。だから私が退職して、自分のブランドを立ち上げると話した時に、

「花さん、私も連れて行ってください」

そんなセリフを聞くだなんて思ってもみなかった。

それでも彼女の存在はとても有り難かった。正直一人でブランドを立ち上げるのは不安だったし、一人でも私の味方がいるというのは心強かった。

「花さんはもっと自分の事褒めた方がいいですって。ちょっとストイック過ぎますよ。たまには自分自身を労ってもいいんじゃないですか」

佐藤さんはよく私を労ってくれる。


最近は早朝に目が覚めてしまう。本当はヘトヘトのはずなのにぐっすり眠れなくなってしまった。そしていてもたっても居られなくなり、会社に来ては、一人泣いてしまう。

たまに自分で、独立なんてしなきゃ良かったって思っちゃう時がある。

それでも私に付いて来てくれた後輩の為にも絶対にこれを乗り越えてみせる!

そう思っていると、急にその後輩の大きな声が聞こえる。

朝早く、まだ電気もつけていない事務所で彼女の大きな声だけが響き渡る。私達の間はお互いが顔を赤くしながら、少し気まずくも暖かい沈黙がその場に流れる。

「そういえば花さんもMs.OOJA好きなんですよね?ブランドが上手くいくように息抜きの意味も込めて一緒にライブ行きませんか?」

佐藤さんからのいきなりの誘いに少々困惑したけれど、すごく嬉しかった。今まで私は息抜きなんてしないでずっと私はよく頑張ってるよ!たまには自分を労うか。


悲しい時も辛い時にも隣には私を労ってくれる優しいこの声があるから。

さぁ、立ち上がって、顔をあげて!

頑張れ、私!

よく頑張ってるぞ、私!


「私自分のブランドを立ち上げようと思っているの」

一瞬花さんの言っている事がわからなかった。自分自身のブランドを立ち上げる?

「じゃあ今の仕事は辞めるんですか?」

「そうなりますね」

花さんはいつもと変わらない淡々とした口調で話していた。私はその瞬間に後先の事なんて何も考えずに、

「花さん、私も連れて行って下さい」

そんなセリフを口にしていた。

花さんはすごく驚いた表情をしていた。まさか私がこんな事を言うなんて思ってもいなかったのだろう。


それでもやっぱり今のこのアパレル不況の中、ブランドを立ち上げるというのは難しい事なのかもしれない。そもそもアパレルブランドは二年以上継続する事自体が難しいと言われている。私は自分の決心が正しいのか正直わからず悩んでいた。ブランド立ち上げたばかりの頃、商談のアポすら取れない日々だった。商談を取ろうと飛び込みで営業に行ったり、昔のツテを使って商談しようとするも意味はなかった。挫けそうで、辛くて、心が折れそうになっても、なんとか頑張れたのは、いつもすぐそばに花さんがいたからだ。

花さんの、その瞳は真っ直ぐにただ、前だけを見つめていた。その姿を見ていると不思議と私にも力が湧いてくる。

花さんのブランド「fleur」は私と花さんの、二人の道を照らす光だった。


最初こそ苦戦していたが、やっぱり「山田花」というブランド力はすごく大きかった。次第に多くのスポンサーがつき始めてくれた。私と花さんもようやく一安心、これからだ、という時に想定外のハプニングが起こった。新型コロナウイルスの感染拡大が始まったのだ。それまでは順調に進んでいた商談も一斉に話がストップし、スポンサーを降りたいという企業も後を絶たなかった。

それまで順調に進んでいただけに不安は大きかった。心無い酷い事も言われ、正直精神的なダメージもかなり受けていた。吹き続ける逆風は私達の身を削っていた。それでも花さんは自分も辛いはずなのに、私には弱っている所をみせなかった。それでもやっぱり花さんが辛い時は同じように胸が痛かった。

コロナショックは私だけでなく、アパレル業界全体に大きな衝撃を与えた。中国の工場がストップし、服を作る事もできなくなり、「ステイホーム」という言葉が合言葉になってから、街の人々は家に篭り、服を買うという習慣がなくなり始めていた。その結果、多くのブランドが倒産に追い込まれていった。その中には有名ブランドもいくつか含まれていた。

有名ブランドが倒産するとSNSでは、

「ショックすぎるー!」

「もう買えないと思ったら悲しい」

「思い出のブランドが無くなってしまってショック」

そのようなコメントが多く見られた。


またコロナウイルスは多くの人の命も奪い続けている。その中には有名人も含まれていて、有名人の訃報を聞くとSNSでは、

「ショックすぎるー!」

「もう観られないと思ったら悲しい」

「思い出の人が亡くなってしまってショック」

そのようなコメントが多く見られた。


私はこのコロナウイルスによって、今まで当たり前にあると思っていたものが急に消えるという事を学んだ。

だから私達はこの「今」を大切にしないといけない。

「今を大切に生きろ」

そんな言葉が軽く感じていた私だけど、このコロナウイルスをきっかけにその言葉の重みを知る事ができた。

好きなブランドが無くなってから、「好きでした」なんて言ってももう遅い。もうその言葉は一生伝わらない。

好きな人が亡くなってから、「好きでした」なんて言っても意味がない。もうその言葉は一生伝わらない。

「好き」って気持ちはこの「今」伝えないと意味がないんだ。

花さんが昔オススメしていたブランド、今でもずっと大好きなブランドが倒産したというニュースを見て、私はそんな事を思った。


翌朝、少し早めに事務所に行くとそこにはすでに花さんの姿があった。

その背中は少し弱々しく見えた。泣いているんだとすぐにわかった。

「fleur」は私と花さんの、二人の道を照らす光だ。

数えきれない涙を超えてきた、私にとってのヒーローがいま苦しんでいる。

いま叫ぼう、心のままに

解き放とう、心のままに

「好き」って気持ちはこの「今」伝えないと意味がないんだ。


「私ずっと花さんに憧れてました!今こうして一緒に仕事を出来る事が本当に幸せです!」


朝早く、まだ電気もつけていない事務所で私の大きな声だけが響き渡る。私と花さんはなんとも言えない気恥かしい状態でお互いが顔を赤くしながら、少し気まずくも暖かい沈黙がその場に流れる。

「そういえば花さんもMs.OOJA好きなんですよね?ブランドが上手くいくように息抜きの意味も込めて一緒にライブ行きませんか?」

私はその空気を強行突破するように花さんを誘ってみた。


「今回のライブは中止になりました」

彼女はしばらく何も喋らなかった。いや、喋れなかったのかもしれない。

正直今回のライブ中止を彼女に伝えれば、彼女がどんな顔をするか、どんな気持ちになるのか。すぐに頭に思い浮かぶから辛かった。でも今回はしょうがない。事情が事情だ。それは彼女も、自分達もみんなわかっている。でもどうしようもないからこそ、やりようのない、ぶつけようのない怒りのような気持ちが溢れてくる。

彼女は歌を歌う事が生きがいだ。自分の言葉を歌に乗せて人々に伝える事が天命だと思っている。彼女にとって歌は呼吸のようなものだ、なくては生きていけないもの。そんな彼女の歌う場がなくなった、そう伝えるのはあまりに辛すぎる。彼女にとって今回のライブはいつもとは違う意味合いを持っている。今回のライブは彼女にとって初めての凱旋ライブだった。


彼女を初めて見た時の事は今でも鮮明に覚えている。いや、忘れられない。

知り合いにクラブを経営してる友人がいて、その友人に一度は来てみてくれと、誘われて行ったクラブで初めて彼女を見かけた。その時は完全にレコード会社の看板はおろして、ただの素人としてクラブに行ってたから酒をけっこう飲んでいた。でも彼女を見た瞬間、酔いは覚めていった。それは彼女が歌う前からだ。

スラっとした長身で、綺麗な緑色のワンピースから伸びた長い手足はまるでモデルのようだった。

まだ表情にあどけなさや、若干の幼さこそ残していたが、ステージでの堂々とした振る舞い、そしてなによりも歌の上手さに度肝を抜かれた。

僕はこの時から彼女に夢中になっていた。

彼女は絶対に歌手にならないといけない人だ。彼女の歌をたくさんの人に届けないといけない。そして、彼女の歌をたくさんの人に届ける事こそ自分の天命だとも思った。

酔いこそ覚めていたものの、真っ赤な顔で僕は彼女に挨拶した。僕が挨拶をすると、彼女はめんどくさそうに広角と目尻をわずかに上に上げた。どうやら彼女なりの苦笑いらしい。完全に怪しまれてるから、たまたま持っていた会社の名刺を渡す。せっかくおろしていた看板をもう一度背負い直す。僕はどうにかこうにかして彼女を口説き落とした。その頃の話をするといつも笑い話になる。


デビューしてまもなくは順調に進んでいたけど、四年ほど経つと彼女は大きな悩みを抱えているような気がした。彼女はとにかく歌が大好きだ。それゆえ彼女は歌に対して常に全力で挑んでいた。歌に対して常に万全な状態で挑みたいと思っているから、ほとんど遊びに出かけることもせず、飲みに行く事もなかった。家と仕事の往復をするだけの生活をしていた。

そんな常に歌に対して肩肘を張りすぎて、ストイックになりすぎていた彼女はいつからか、詞を書く事が出来なくなっていた。

気を張りすぎて、無理をしているのは明らかだった。

彼女の相談に乗ろうとすると、

「もう書く事がない!」

珍しく彼女が大きな声を出した。

いつも冷静な彼女がやけに感情的になったのがすごく印象的だった。彼女がこんなに感情を露わにするなんて、いま思えばそれぐらい追い詰められていたんだと思う。

この時彼女の心の中で”カラーン”と鐘の音が聞こえたそうだ。その鐘の音が一体なんの音だったのか、僕にはわからないけど、彼女自身がゴングの音を鳴らしたんだと思う。力を振り絞って、自分自身を奮い立たせたんだと思う。

お互いいろんな事を話して、それからは今までやってこなかった仕事にも挑戦するようにした。人との付き合いが広がったのも良かった。彼女も自分なりにインプットを増やそうとしているんだなって思った。それからの彼女はより一層輝いた。

彼女は気づいたんだ。

とにかく楽しんで歌う事が一番大事、だという事に。

技術ももちろん大切なんだけど、それよりも自分自身が楽しむ事、伝える事を重視する事が大切で、もっとありのままで歌っていいんだという事に。


だから彼女の歌には強い言霊が込められている。

彼女はいつも言う。

「ただただ言葉を並べているんじゃ”私”が歌う意味がない。私自身の経験や思う事を言葉にしないと、自分が歌っている意味がない」

だからMs.OOJAの歌を聴いていると心が揺らされるんだ。

彼女の歌はアンセムだ。

毎日を葛藤しながら生きている、そんな人達に声を代弁して歌う事で、みんなを応援している。


当たり前のように自分と会ってくれる人がいるだけで、それは奇跡だという事。

人生、なんでもかんでも欲しいものが簡単に手に入ったんじゃつまらない。毎日の人知れぬ苦労や辛さがあるからこそ、些細な楽しさや愛を知れるという事。

理想よりも大事なものがあるという事。

自分を非難する声なんて気にする事ない。それよりも自分を勇気づけてくれる声、元気づけてくれる声、そんな声が案外周りに溢れているという事。

たまには自分を認めてあげてもいいんだ、褒めてあげてもいいんだという事。

好きな人にはいま「好き」と伝える事、今の気持ちを大切にするという事。


僕は彼女と彼女の歌からそんな事を教わった。

僕はそんなMs.OOJAが好きだ。


彼女はライブを楽しみにしていた人達にせめてメッセージだけでも伝えたいとお願いしてきた。彼女は本当にファンの方達を大切に思う、その気持ちが痛いほど伝わってくる。

そして彼女は歌でメッセージを伝えたいと言って、急遽インスタライブで一曲だけ配信する事にした。

「歌でメッセージを伝えたい」か、本当に彼女らしい。シンガーソングライターではなく、まさしく歌手だ。

彼女が選んだ曲は「NEW DAY」

それもまた、本当に彼女らしい。

 

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ふいに強い風がふいた

なぜか涙溢れていた

私はこんなに弱かったの?


今日もまた


テレビから流れてくるのは

辛く悲しいニュースばかりで

やりきれない気持ちになるけど


大丈夫さ


いつか必ず

たどり着くから

その足を止めないで


答え出すことが大事なら

生きることは難しいよね

全て報われるわけじゃない


それでも


冷たい人混みの中だって

探し続けてた温もりが

そばにあるなら生きていける


晴れ渡る空 遮るものは

何もないから

その足を止めないで

いつか必ず

たどり着くから

ほら 新しい朝はそこに来てる


正しいことだけを選んで行くのは

簡単じゃない

間違う日もあるよ

でもそこに“思い”があるなら


大丈夫さ


いつか必ず

たどり着くから

その足を止めないで


晴れ渡る空 遮るものは

何もないから

その足を止めないで

いつか必ず

たどり着くから

ほら新しい朝はそこに来てる


晴れ渡る空 遮るものは

何もないから

その足を止めないで


いつか必ず

たどり着くから

ほら 新しい朝はそこに来てる

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不安でどうしようもない時。

彼女の「大丈夫さ」を聴いて、

いったい何人の人達が救われたんだろう。何人の人達が前を向くことができたんだろう。

彼女の「その足を止めないで」を聴いて、

いったい何人の人達が歩き始めたんだろう。何人の人達が歩き続けたんだろう。


彼女の歌を聴いて、

いったい何人の人達の人生が変わったんだろう。


いま目に見えない恐怖に怯えて、毎日を不安で過ごす中、


大丈夫さ


私達にいま一番必要なのはこんな簡単な言葉なのかもしれない。

 


ほら、新しい朝はそこに来てる。

Footprint

「加藤さん、ちょっとすみません。先日依頼した資料で、数字についてなんですけど。日付部分が半角になっているのに、本文の方では全角になってるのって何か特別な意味があります?」

「あ、いや特に意味はありません。私のミスです。すみませんでした。修正して再度提出します」

「はい、よろしくお願いします」

トップスタイリストである山田花さん。彼女はとにかく細かい事で有名。資料の細かさはもちろん、スタイリングの際のアクセサリーの大きさ、襟の立ち具合、靴の紐の色など事細かに指示をしてくる。

この春から花さんのアシスタントにつき始めたけど、周りのみんなからは、

「うわー花さんの下かー、キッツイねー」

「ドンマイ!飲みには付き合うからね、頑張ってね」

たくさんの励ましの言葉をもらった。それぐらい社内で花さんの細かさと厳しさは有名だった。何年か前にはあまりの辛さにアシスタントが逃げ出したらしい。

たしかに花さんの下はかなりキツい。まぁまぁ理不尽な事で怒られるし、私の状況お構いなしに仕事が降ってくる。だからついトイレで愚痴ってしまう事もある。それでも周りの人もその愚痴に対して予想以上に乗っかってくる事がほとんどだ。

つまり、花さんは社内で少しだけ浮いていた。

どのグループでも女子同士が仲良くなる方法が必ずある。それは共通の敵を作るという事だ。敵というと少し語弊があるかもしれないけれど、みんなのネガティブの矛先を誰かに向けるのだ。みんなの矛は一本しかないから、その標的に矛を向ける事で自分たちに矛が向かなくなるという訳だ。悲しいけど、共通の敵を作らないと人って手を組まないんだなぁと思っていた。誰かを「嫌い」っていう話をするとほんの一瞬だけ仲良くなれた気がする。

「花さんのああいうとこが嫌い」

「そうだよね」

ものすごくお互いが共感したように感じる。だから私も花さんに矛を向ける事で自分を守っていた。花さんの名前を馬鹿にする事もあったし、花さんの細かさを馬鹿にする事もあった。

それでも私は絶対に花さんから逃げる事なんてしないとわかっていた。

だって私にとって花さんは、憧れの存在だから。


最初に花さんの事を知ったのは、大学一年生の時。

当時の私は大学進学の為に埼玉から上京し、一人暮らしを始めたばかり。中学まではソフトボール部に所属し、練習に明け暮れた一年中ほとんど休みも取らずに一生懸命練習した。体感的には三六六日ぐらい練習してたんじゃないだろうか、閏年でもないのに。高校に入ってからは甲子園に大きな憧れを抱いて野球部のマネージャーになった。

高校まで、私の青春は部活に熱を入れてたから、私は身なりに対して努力の仕方が全くわからなかった。ボールを遠くに飛ばす方法も、盗塁のタイミングも、大学生活にはこれっぽっちも役には立たなかった。

独りでいる事は恥ずかしい事。

何となくだけど、独りでいる事は悪い事のように感じられるキャンパス内で私はどうにか孤独にならないように、たいして話の合わない子達と一緒に時間を過ごしていた。周りの友達がみんなオシャレに見えたし、化粧なんてした事がない私は完全に一人だけ浮いていた。当然合コンに呼ばれる事もない。周りの友達は、昨日の合コンがどうだとか、社会人の彼氏がどうだとか、わかりやすくキャンパスライフを謳歌していた。そもそもずっと体育会系だったから可愛らしさなんて概念はとうに捨てていたから、「このままじゃいけない」と思い、少しでも周りの可愛らしい女の子のようになる為に、頑張ったバイト代を握り締め可愛らしい服を買いに行こうとした。自分のセンスに自信なんてなかったから、誰かと一緒に行けば良かったのだけど、自分のセンスに自信がないからこそ、独りで行くしかなかった。服を買いに行く服がない状況だ。

田舎から飛び出してきた少女感丸出しで私は初めてルミネに買い物に出掛けた。でもお店に入るたびに

「こいつださいなー」

「何も服知らなそう」

店員さんからそう思われてるような気がして、向こうは優しく声をかけているはずなのに私は「騙そうとしてるんじゃないか」と、疑心暗鬼の中でも赤鬼レベルの鬼が私の心の中で暴れていた為、まともに店内にいることすら出来なかった。店内に入ろうとするも、店員さんの視線を感じたらすぐに店を出るという、不審者丸出し状態でルミネをウロついていると、一つの靴が目に止まった。その靴は鮮やかな黄緑色のヒールで、靴底には綺麗な花柄がデザインされていた。

「可愛い」

私は直感でそう感じた。吸い込まれるようにそのお店へ行くと、試着もせずに私はその靴を購入した。迷いは一切なかった。

お店を出て、振り返る。そこには困った表情をしている私がガラスに映っていた。買うつもりがなかったのに思わず衝動買いすると人はこんな顔になるのだろうか。戸惑いと嬉しさが混じり合ったような困った表情だった。

初めて服を買い行ったはずの私はなぜか可愛らしい派手なヒールを買っていた。とりあえず他に服を買ってみたけど、さっきのヒールを見つけた時のような気分が上がるような服ではなかった。

翌日、早速買ったばかりのヒールと買ったばかりのシャツを着て学校に行くと、

「清華ちゃん、その靴どうしたの?」

いきなり気がつくなんてさすがだなぁなんて思いながら、

「可愛いでしょ?昨日思わず一目惚れして買ったんだ」

「へぇ、そうなんだ。いいね」

さっそく褒められて気分が上がった。やっぱりオシャレって楽しいのかも。授業が終わった後、トイレに入ると、聞こえてしまった。

「清華の今日の靴見た?笑」

「見た、見た。あれやばくない?笑いこらえるの必死でさ(笑)」

「あんな靴履くのどこかの妖精ぐらいでしょ?似合ってないよって意味で『どうしたの?』って聞いたのに、『可愛いでしょ?一目惚れして買ったんだー』って言われちゃって(笑)何も言えなかったよねー」

「清華ってほんとセンスないよねー(笑)」

私は溢れ出そうな涙をこらえながら、まだ走りにくい靴でその場から走って逃げた。


ほんとは授業がまだあったけどその日はもうキャンパス内にはいたくなかった。それに一刻も早くこの靴を脱いでしまいたかった。この靴を見られたくなかった。家に帰ってしばらくボーッとした後、ツイッターをひらく。あんなに傷ついた後でもツイッターをいつものようにひらく私はほんとにオシャレではないものの充分イマドキ女子と言えるだろう。いつもはたまったツイートを軽く親指で読み飛ばす私だけど、あるワードが気になって読み直したツイートがあった。”オシャレがわからない女子の為のブログ”というタイトルのツイートが誰かにリツイートされている。そのツイートには、ブログのURLが貼り付けられている。

それこそが花さんとの出会いだった。そのブログは花さんがオシャレをわからない女性向けに始めたもので、素人の初歩的なファッションの質問に対して彼女が真摯に回答するという内容だった。

「コンサバって何ですか?」

「直訳すると『保守的』という意味ですが、とってもわかりやすくいうとキャリアウーマンみたいな服装です。雑誌でいうとoggiって言った方が伝わりますかね」

「ワンピースとオールインワンの違いって何ですか?」

「下がスカートタイプになってるものがワンピース、下がズボンタイプになってるものがオールインワン。こんな覚え方で問題ないかと」

彼女は今までのオシャレな人とは少し違っていた。ファッション素人がわかりやすいように、誰もが知っている言葉で説明してくれている。オシャレな人はいつも感覚で説明してくる。特にショップの店員さんがそうだ。昨日の買い物でも、

「このシャツを着ればこなれ感が出せますよー」

「こなれ感って何ですか?」

その場で聞きたかったけど、

「こいつオシャレ何もわかってないな」

って思われるのが怖くて聞けなかった。

試しにそのシャツを買ってみたけど、私には似合ってなかったし、きっとこなれ感も出ていなかった。

そこで私は花さんのブログに質問を投稿してみる事にした。

「こなれ感って何ですか?」

正直返事が来るとは思ってなかったし、別に来なくてもそれはそれでいいやと思っていた。それでも質問をしたその夜にさっそく質問の答えの返事が来た。

「『こなれ感』正直抽象的過ぎてイマイチピンと来ないですよね。簡単に言うとキッチリスタイルを少し崩すという事です。ジャケットにパンツをきっちり着ていたら100%キッチリスタイルじゃないですか?でも例えばボトムをワイドパンツに変えるとキッチリスタイルを少し崩した『こなれ感』が出ます。例えは少し違うかもしれませんが高校生で制服を着崩して着てる子達いるじゃないですか?あれも『こなれ感』の一種です。キッチリスタイルの制服のシャツを少しルーズに着たり。ただ、着崩し過ぎると『だらしなさ』が出るので要注意です。質問者さんの場合だと、おそらくそのシャツをキッチリ着てしまったのではないでしょうか?例えばシャツは第二ボタンぐらいまで開けて、キッチリ肩では着ないで、肩のポイントを少し後ろにずらして、ほんの少しだけだらしなく着てみてください。きっと『こなれ感』が出ますよ」

彼女のアドバイスは的確だった。たしかに少しルーズに着てみたら一気にオシャレな人になった。ショップの店員さんは「このシャツを着れば」と言っていたが、「着れば」の奥がこんなにも深いなんて思ってなかった。私はそれから花さんのブログを毎回熟読し、どんどん私はオシャレにハマっていった。


私をオシャレに目覚めさせてくれたのは間違いなく花さんだった。

でも花さんのブログをきっかけに私はオシャレに対する努力を始めた。そしてオシャレに目覚めてから私は初めて自分に自信がついた。それはすごい事だと思う。

私は懲りずにこんな質問を花さんにした事もある。

「花さんは何がキッカケで洋服に興味を持ったのですか?」

今思えば何でこんな質問をしたのだろうと思う。このブログは私だけが観ているんじゃない、その他何万人という人が観ている。そんな中でこんなよくわからない質問をした私は恥ずかしい気持ちになっていたけど、匿名だからいっかと、気にしなかった。

それでも花さんは律儀に私の質問に答えてくれた。

「質問ありがとうございます。洋服は自信をくれるから興味を持ちました。なんというか、私たち女性って男性よりも鏡の前に立つ機会が多いと思うんですよ。でもその鏡の前に立ってあれ?って思う時もあるじゃないですか。『あれ?こんな所にシミが出来てる』とか、『あれ?少し顔太った』とか。それでその日一日ネガティブな日になりそうだなって時にお気に入りの服を着ると不思議な事になぜか自信がつくんですよね。『シミが出来た?顔が太った?だからなに?私の今日の服装は最強だぞ!』みたいな。なんか洋服って毎日を楽しく過ごす為の大事なツールだなって感じ始めてから、興味を持つようになりましたね」

私も全く同じだ。

花さんの存在を知って、洋服やオシャレに興味湧いてからは、

自分が大好きな洋服を身に纏った瞬間、自分の今日の今日の化粧が上手くいった瞬間、「今日の私は最強!」という無敵モードになれる。

セーラームーンが「メイクアップ!」と言って強くなったり、

秘密のアッコちゃんが化粧机の中からテクマクマヤコンを開けて強くなったり、

わたしも同じような感覚な気がした。


私に自信をくれた花さんと一緒に仕事がしたい!

就活の時期になると私はそう思い始めた。花さんみたいに私も人に自信を与えたいと思ったからだ。

だから花さんと一緒に働ける事になった時は今までの人生で間違いなく一番嬉しかった。

憧れの花さんが目の前にいる。私はとにかく花さんに近づけるように、花さんをいつも観察して、花さんの服装をとにかく真似した。

花さんが身につけてるものなんでも買った。帽子、ワンピース、ニット、スカート、ワイドパンツ、スラックス、ジーンズ、ヒール、スニーカー、ネックレス、とにかくなんでも買った。私に似合うかどうかよりも、花さんが付けているかどうか、私にとってその方が重要だった。

でも花さんと私は何かが決定的に違う気がした。高いものを着ているかどうかではなく、花さんは自分のスタイルを持っている。上手く言葉に出来ないけれど、こう何というか自分なりのスタイルを持っているというか、おそらくマネキンが着ていても、これは花さんの服だなとわかるようなスタイルを持っている。だからきっと、カフェにいるだけで様になるんだろうな。

入社して三年経つと、私は花さんのアシスタントになる事が出来た。私はとても嬉しかった。アシスタントになると休日返上で仕事に明け暮れた。とにかく必死だった。必死に花さんに近づこうとしていた。


花さんのアシスタントになってから、二年ほど経った時、

「佐藤さん、今度の雑誌のスタイリングなんですけど、一人だけコーデを考えてほしいです」

「え!いいんですか!?」

私はこのチャンスを絶対に活かすと、気合いが入った。というのも、実は入社して五年経つのに、未だにアシスタントの肩書きが取れていないのは同期の中でも私だけだ。周りの同期からは、

「まぁ花さんの下だからね、評価とか厳しそうだし、あんまり焦らなくていいんじゃない」

優しく慰められるとそれだけで悲しくなってしまう。私はとにかく焦っていた。インスタとかツイッターでも学生の頃の友達がどんどん仕事でステップアップしていく様子がわかるだけに、未だアシスタントでいる事が恥ずかしかったし、焦ってもいた。今の時代、SNSの発達はコミュニケーションを発達させたけど、それはあまりに人の成功が簡単に届きやすくなった。

でもいざ、自分でスタイリングを作ろうと思った時、私は何も浮かばなかった。目を閉じて一生懸命考えても、浮かぶのは花さんだけ。花さんのスタイリングしか思い浮かばなかった。よくモデルのコーデを真似するっていう人がいるけど、あれって真似してるんじゃなくて、参考にしてるんだよね。だからどんどん真似してオシャレになっていくんだよね。私はただ真似してただけ。何も考える事もせず、ただ真似してただけ。

結局私が提案したコーデはボツになった。

「これが佐藤さんのスタイリングですか?なんだか私のスタイリングと変わらないですね。佐藤さんの個性が何もないというか。それなら私がスタイリングをするので大丈夫です」

大きなチャンスを私は逃してしまった。確かに自分の中では別のスタイリングも頭にあったけど、自信がなかった。

どんなに可愛い服を着て、自分に自信がついたような気がしても、私自身のセンスに自信はいつまでも持てなかった。

「清華ってほんとセンスないよねー(笑)」

大学のトイレで聞こえたあのセリフがいつまでも私の耳から離れないんだ。

急に自分が虚しくなってくる。憧れって、人を強くもするし、弱くもする。私っていったいなんなんだろう。下を向きながら歩いていたはずなのに、マンホールに気づかず、溝にヒールのピンが挟まり転んでしまった。子供の頃はいくら転んでも平気だったのに、大人になって転ぶとなんでこんなに痛いんだろう。ふと足元を見ると、そこには最近購入したばかりのヒールが目に入る。花さんを真似して買ったこのヒール。

このヒールの足跡は誰のものなんだろう。


毎年夏になると高校の頃の部活の仲間で地元の西武ドームに野球観戦に行く事が恒例行事になっていた。私は毎年その誘いを断っていた。とにかく仕事に追われる日々で行けるような余裕がなかった。というか休みを返上して仕事に打ち込まないと不安だった。仕事の情熱?そんなものじゃない。私が休まなかったのは、怖かったから。取り残されるのが怖くて、その不安から逃れる為にいつも無理をしていた。

それでもそんな私をみんなは毎年ちゃんと誘ってくれる。「今年は行ってみようかな」気分転換も兼ねて、みんなに会いに行こう。


「清華が来るなんて珍しいよなー」

「いつも仕事、仕事で一回も来てくれなかったからなー」

「ごめん、ごめん!でも毎年誘ってくれて嬉しかったんだよ」

学生の頃の友達ってほんと不思議。会ってない期間がどんなに長くても会った瞬間に当時にタイムスリップできる。五年振りに会うのに、私達の間に「久しぶり」の言葉は必要なかった。

「でも清華、今日来るなんてほんと運がいいよなー」

「え、どうして?」

「今日試合後にミニライブがあるんだよ」

「ライブ?野球とは関係ないの?」

「西武の金子と源田って知ってる?その二人の登場曲を歌ってる歌手がライブをすんのよ。チケットもそう簡単に手に入らないんだからな」

「そうなんだ、知らなかった!ありがとう、それは楽しみだな」


正直西武ライオンズの記憶は松坂がいた時代で止まっている。だから今のライオンズに私が知っている選手は一人もいなかった。それでもやっぱり現地で観る野球観戦は最高に楽しかった。久々に観るからか、久々の高揚感を味わっていた。

「あ、清華!あれだよ、あれ。金子選手。イケメンじゃない?」

確かにカッコいい。野球選手っていうとどうしてもガタイのいいイメージだけど、金子選手はすらっとしててカッコよかった。


〜そう 風のようには 生きて行けないけれど かっこ悪くても良いから 自分の足跡で 描く地図なら〜


金子選手が打席に向かうと、入場曲がかかった。西武ドームに響き渡ったこの曲は金子選手に向けたはずだけど、なぜか私の胸にも強く響いた。

「カッコ悪くても良いから、自分の足跡で・・・」

「あ、この曲!この曲。試合後に歌ってくれるやつ」

「そうなんだ、なんかカッコいい曲だね。試合後が楽しみだな」

結局この試合中、この曲がもう一度流れる事はなかった。

いつの間にか、試合よりもこの曲をもう一度聴きたいという気持ちの方が強くなっていった。


試合は結局ライオンズが負けてしまった。なんとなくドーム内には沈んだ雰囲気が出ていたけど、ライオンズカラーの煌びやかな衣装を纏ったMs.OOJAがグラウンドに姿を見せると、会場の雰囲気は一気に変わった。

そしてドーム内の照明が落とされると音楽が鳴り始めた。


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孤独な夜が 一つ明ける度に

また君は大人になってく


なくしたものを数えるのはもうやめて

顔を上げ歩き出す その瞬間


声に出したら 言葉にしたら

もう 全てが崩れてしまいそうでも


そう 風のようには

生きて行けないけれど

かっこ悪くても良いから

自分の足跡で 描く地図なら

いつか迷う時にも

ねえ きっときっときっと 越えて行ける


つなぎ合わせた 複雑な出来事の

真実は一つじゃなくても

答えはいつも自分の中にあるって

分かってて人はどうして 遠回りするの


もっと飛べたら 強くなれたら

願うほど 傷ついてしまう日もある


そう 心の旅は

ずっと続いてくけど

もっと自分のスピードで

刻む足音で 歩く道なら

壁にぶつかる時も

ねえ きっときっときっと 信じられる


そう 風のようには

生きて行けないけれど

かっこ悪くても良いから

自分の足跡で 描く地図なら

いつか迷う時にも

ねえ きっときっときっと 越えて行ける

————————————————————

 

翌朝、私は下駄箱の一番奥にしまっていたホコリだらけのヒールを取り出し、それを履いた。

ホコリだらけだけど、やっぱり可愛い!


私はきっと花さんの真似をする事で逃げていたんだ。責任を取る事、反省をする事を恐れている。自分自身が否定される事を怖がっている。

でもいいんだ。周りの目なんか気にしなくて。

花さんには花さんのスタイルがあるし、私には私のスタイルがある。

花さんには花さんのスピードがあるし、私には私のスピードがある。

花さんはいつもすごいスピードで駆けていく。休むこともせず駆けていく。

私も同じように休まずに駆けていたけど、それは私のスピードじゃない。花さんのスピードに合わせてたんじゃ、私の靴じゃ足跡なんてつかない。ちゃんと一歩一歩、休みながら、着実に地面を踏まないと私の足跡はつかないんだ。


いつか花さんのように

口数は少なくて多分に漏れず頑固でいつでも控えめで

笑うと可愛くて

でも迷う時は道しるべにそっとなってくれる、

そんな花さんのようになりたいな。


でもそこまでの道のりは私が決める

私の足跡で

花柄の足跡で

自分が人生で一番見る事が多い文字というのは、自分の名前らしい。

自分の名前というのは、親が子供に贈る最初のプレゼントらしい。

それなら結婚して自分の名前が変わってしまうというのはどうなんだろう?あ、結婚して変わるのは名字か。つまり名前というのは何をしようとも変わらない、というか変えられない。決して変える事が出来ない物を贈られるってどうなんだろう?人によってはなかなか迷惑だと思う。一生外せないって、それってもはや呪いの道具じゃない?

とにかく私は自分の名前が大嫌いだった。

私の名前は山田花。

そんな平凡でなんの個性もない、自分の名前が大嫌い。


「加藤さん、ちょっとすいません。先日依頼した資料で、数字についてなんですけど。日付部分が半角になっているのに、本文の方では全角になってるのって何か特別な意味があります?」

「あ、いや特に意味はありません。私のミスです。すいませんでした。修正して再度提出します」

「はい、よろしくお願いします」

「というか最初からそれをやって、提出してくれません?」

危ないあぶない、危うく本音まで言葉にしてしまう所だった。「最近の若い人は〜」なんてセリフ絶対に使いたくないって思ってたけど、最近の若い人はとにかく仕事がいい加減だ。資料のミスぐらい自分で気づいてほしい。半角か全角かぐらい自分で一度見直せばわかるはずだけどな。そう思いながらお手洗いに向かうと、何やらヒソヒソと女性社員同士が話している声が聞こえる。

「山田さんってほんとサイボーグみたいだよね。すっごい細かいし、全然笑わないし」

先ほど注意した加藤さんが愚痴っていた。

「私が細かいんじゃなくて、あなたがいい加減なの」

正面から思いっきりそう言ってやりたかったけど、若い人と話すのが苦手な私はひとまずその場を立ち去る。


「自分が若い時は〜だった」なんてセリフ絶対に使いたくないって思ってたけど、私が若い時はとにかく仕事に時間を費やした。一流のスタイリストになる為に、毎日ファッション雑誌を読み漁り、ファッション辞典を読み漁り、海外のコレクションをくまなくチェックして、休みの日でも表参道、青山、渋谷、代官山で街行く人のファッションチェックをした。もちろんそれだけじゃ出世なんて出来ないから、職場でも当たり前の事を完璧にこなしてきた。掃除からお茶の補給、誰かに言われてからやらされるのがめっぽう嫌いな私はなんだって自分が主体で仕事をしてきた。もちろんそんな事にお礼を言ってくる人はいない。でもそんなの関係ない。やらされ仕事なんて絶対にやりたくない。資料作りだって一度たりとも手を抜いた事はない。ホチキスの位置すら注意深くやっていた。私は仕事において手を抜いた事なんて一度もない。

でも見てくれてる人はやっぱりいた。日頃の仕事を評価していただき、私は二十五歳という異例のスピードでスタイリストに任命された。

「お前は個性的なファッションではないけど、でも確実に一般ウケするファッションを提案してくれる。会社もお前にはそういう所を期待しているからな!」

私のファッションは一般ウケする。これって褒め言葉なんだろうか。私は素直に受け止められずにいた。

それから十年経った今、周りからはトップスタイリストと呼ばれるようになった。インスタグラムのフォロワー数は十五万人にもなった。もちろんフォロワー数で全て判断するわけではないけど、この数は素人としては異常な数だった。芸能人でもフォロワー数が一万人いくのは一握りだと聞いた事がある。

人気の要因としてよく言われるのが、「山田花の服装は真似しやすい」という事。一流モデルや人気芸能人のファッションはどうしても個性が強くて、一般人には真似しにくい。その点山田花の服装は一般人に近くて、真似しやすいという事だった。

「何になりたいか」と問われれば、「憧れの女性」になりたい。ただ、それだけ。

でもいつだって「憧れの存在」というものはオンリーワンの存在だ。その人だけにしか出来ないというか、誰も真似できないというか、私はそういう存在に憧れていた。

今日のお昼もいつもと同じように会社前にいつも来るキッチンカーの前で、バインミーサンドイッチが出来上がるのを待つ。その間に一体何人の男がすれ違い際に私の顔に視線を向けたのだろう。そんな視線にはもう慣れた。もちろん私は動じない。きっと私はモテる部類の女性である事は間違いない。でも、私が求めてるのはオンリーワンの存在になる事だ。


小学生の頃の私は周りの友達や、友達のお母さんから、

「花ちゃんは可愛いね〜」

「花ちゃん綺麗〜、将来は女優さんだね」

とチヤホヤされながら育ってきた。たしかに可愛いと言われる事は嬉しかったけど、その言葉をどこか素直に飲み込めない私がいた。

自分が周りの女性と違うと自覚するようになったのは中学生の時。

中学校に入学してまもなく、学校の男子たちが私の事を観るために、教室に来るようになった。そしてそれに比例するように学年問わずいろんな男子が私に告白をしてくるようになった。仲の良い友達から顔も見た事がない男子まで。そして私は三年生で、学校イチイケメンの先輩から告白されて付き合い始めた。

思春期の頃の女子というのは不思議なもので、謎の先輩補正機能というものが搭載されている。だから“先輩”というだけで謎にカッコ良く思えてしまうのだ。そんな補正機能を搭載した彼女達からしたら、学校イチイケメン、そしてなにより三年生と付き合っている私は憧れの眼差しで見られるようになった。

「あぁ、私は周りとは違うんだ」

私はこの頃、私は美人なんだと自覚した。

そして私の意識を変えたのは男からの視線だった。オンナはオトコに見られて初めて女になる。

中学生ながらに私はこんな風に思っていた。

それを自覚するようになってから、その期待を裏切らないように、肌・髪型・服装・仕草などあらゆる面において努力を怠らなかった。見た目だけで、中身が空っぽなんて思われたくなかったから勉強だって手を抜かなかった。毎日私はプレッシャーを感じていた。でも美しい者はいつだって、そのプレッシャーを背負わなければいけない。

謂れのない嫉妬からか、周りの女子から嫌がらせを受ける事もあった。でもそんな嫌がらせ、正直私には全然平気だった。強がりでもなく、本当に気にならなかった。夏場に蚊に刺されて本気で蚊に対してキレる人っているだろうか。急な雨に打たれて、本気で雨にキレる人っているだろうか。私にとって、彼女らの嫌がらせは宿命だと思っていた。美しい女は誰よりも好かれて、そして誰よりも嫌われる。そういう宿命なのだ。

それからの私は、常に女性の憧れであり続けた。高校でも、大学でも常に私は周りの女性の憧れであり続けた。

満員電車でも男の人は寄ってこないし、席もすぐに譲られる。満員電車でも立ってたという記憶があまりない。


若い頃は女性の憧れになる事は簡単だった。

外見に気を遣って、ある程度の常識さえ身につけていれば容易くみんなが憧れてくれた。

でも年齢を重ねる度に女性の憧れになる事はどんどん難しくなっていった。ただ容姿が良ければ憧れられる、そんな年齢は過ぎてしまった。ある程度の年齢になると容姿だけじゃ女性の憧れの存在になる事は出来ず、仕事も一生懸命頑張った。そうすると今度は「女なのに料理も出来ない」とか、「ファッションセンスがダサい」とか、とにかく女の場合は採点項目が多過ぎる。

何かが出来ていても、「でもブス」とか、「でも仕事が出来ない」とか、「でも女子力がない」とか、とにかく完璧を求められる。

だから私はできる限り完璧に近づくように努力をした。

でもある時、トイレで聞いてしまった。

「山田さんっているじゃん?うちのスタイリストの」

「あぁ、なんかインスタのフォロワー数がすごい人でしょ?」

「あの人あんな派手な見た目なのに名前が山田花じゃん?笑」

「なに笑ってるのよ、そんなの名前なんだからしょうがないじゃん(笑)」

「でもこの前トイレでばったり会った時に『トイレの花さん』って思ったら笑いこらえるの必死でさ(笑)」

「まぁ確かに、あの感じで『山田花』はねー」

「しかも雑誌のインタビューで『女性の憧れになりたい』とかって答えてて、いやいや山田花じゃ無理だろうって思って(笑)」

「清華、ほんと性格悪いなー」

「確かにすっごい美人だし、仕事もできるんだけど、”でも名前が平凡だからねー”」


私には唯一コンプレックスがある。それはどうしたって直す事ができない。

それは名前だ。

山田花。

あまりに平凡なその名前が、私にとっては呪いの装備のようだった。

どんなに見た目が美しくても、どんなに着る服、使う化粧品、食べ物、すべてにおいて努力をしても、誰かに名前を呼ばれるたびに、

「お前は平凡な女だ」

そう言われている気がした。

書類提出時に、「本名ですか?」なんて聞かれた経験ある人いるんだろうか。病院で名前を呼ばれると必ず周りの人から顔を見られる。

「顔はすごい綺麗なのに、名前が普通だから親近感湧く」

これを素直に褒め言葉として受け取れる人なんているんだろうか。

どんなに努力しても、私の平凡な名前が呼ばれるたびに、どうしても自分は個性のない平凡な女だと思ってしまう。

先日もテレビ局の取材を受けた際に若い女性アナウンサーは堂々と私の事を「山田花子」と呼んでいた。あの時はついカッとなってしまい強く言ってしまった。

あの時ついカッと来てしまったのはきっと、彼女のミスに怒ったんじゃない。個性的な性格の女性だったから、ついあの子に姿を重ねてしまった。


あれはまだ私がスタイリストとして仕事を始めて三年目ぐらいの頃、毎日の業務に追われ、日々疲弊していく私を見かねた当時の上司から、アシスタントをつけてもらえる事になった。ただ入社して間もない若い子をアシスタントにつけれても正直、仕事の助けになるんだろうかと疑問だった。

「堤暁子です。なんでもやりますので、どうぞよろしくお願いします」

緊張した様子で頭を下げる彼女を見て、若い子にしてはガッツがある子なのかなと、少しだけ期待した。

でもその期待はすぐに裏切られた。

頼んでおいた服のサンプルが当日に間に合わなかったり、そもそもサンプル依頼をしていなかったり、私が徹夜で作った資料を容赦なく消したり、取引先に対して間違えた発注書を送ったり、とにかく簡単なミスを連発した。

やる気はあるんだろうけど、そのやる気が空回りしちゃうのか、とにかく暁子はミスを連発した。

私の仕事は軽くなるどころか、むしろ一人でやってた頃よりも仕事量は増えていった。

雑誌の撮影が終わり、やり残していた明日の会議資料を作るためにこれから会社に戻らなければいけない。今日もきっと終電だな、花はそう覚悟を決めた。

「はぁ、厄介な子がアシスタントでついちゃったなぁ」

明日部長に会ったら、暁子をアシスタントから外して下さい、そうお願いしようと思ってデスクに戻ると暁子が一人で黙々と作業をしている。

「あれ、堤さん?まだ残ってるの?」

「あ、山田さん。すいません。明日の資料作ってみたんですけど、確認してもらえませんか?」

「え、でも資料作りは頼んでないわよ」

「でも、本当はこういうのってアシスタントの仕事だと思うんです。だから本当なら私がやらなきゃだと思うので」

確認すると、正直そのまま使えるレベルではないが少しの修正をすれば充分な出来だった。それに何より着眼点が目からウロコだった。こんな考え方あるんだと思ってしまった。「絶対に自分じゃ思い浮かばない」私は暁子の独特なセンスに何か光り輝くものを感じた。終電を覚悟していた私は、そのままの勢いで暁子を飲みに誘ってみた。

「堤さん、仕事どう?大変じゃない?」

ここで彼女が大変だと言ったら、彼女の為にも、私の為にも部長にアシスタントを外すようにお願いしよう。そう決めていた。

「いえ、毎日楽しいです」

え?

「毎日ミスばかりで、山田さんとか周りの方達に迷惑ばかりかけて仕事は確かに大変ですけど、私はファッションが大好きなので」

彼女に言われてハッとした。いつの間にか忘れていた、その気持ち。

「そっか!そうだよね、大好きなファッションの仕事が出来ているんだもんね、私たち」

それからいろんな事を話してみて、彼女の仕事のミスの原因がわかってきた。彼女は私に誘われた今日の食事中、最初の頃は目に見えて緊張していたが、お酒の力もあってか、いまではすっかり緊張が解けている。彼女はきっと仕事中とにかく肩に力が入り過ぎているんだと思う。まぁそりゃそうだよな、いきなり見ず知らずの女の先輩の下でアシスタントとして働けなんて、新卒の子に緊張しないで働けなんてそりゃ無理な話だ。

それから暁子は私に対する緊張感が解けたせいか、ミスがすっかりなくなり、なんなら私にアドバイスをしてくれるようにまでなった。

「花さん、ここのアクセサリーはあえて大きくした方が、Tシャツのロゴが映えると思います」

「花さん、このコーデにはサンダルよりもあえてキレイめなパンプスのほうが働く女性って感じがします」

暁子のアドバイスは的を得ていることもあれば、的外れな時もあった。それでも暁子のアドバイスには助けられる事が多かったし、やっぱり暁子の感性はどこか独特なものがあり、常識や慣習に侵されてしまったしまった私では思いつかないアドバイスばかりだった。

暁子のアドバイスのおかげで私のスタイリストとしての評価は急上昇していった。

きっとこういう個性のある子がいつかみんなの「憧れの女性」になるんだろうな、そう思っていた。

「暁子を必ずスタイリストに育て上げよう!」

私は密かに決めていた。


それから私は暁子に多くの事を要求した。それは自分が若い時に自らに課していたものだった。

毎日ファッション雑誌を読み漁り、ファッション辞典を読み漁り、海外のコレクションをくまなくチェックして、休みの日でも表参道、青山、渋谷、代官山で街行く人のファッションチェックをしなさい。

そしてその報告書を必ず毎週月曜日朝イチ私に提出しなさいと。

日に日に彼女は疲弊していっていたが、私はそれも暁子の為だと思い、あえてその様子を気づかないフリをしていた。

そして彼女も最初の頃こそ真面目に報告書を提出していたが、だんだんと提出が遅れたり、提出しないようになっていった。

見かねた私は暁子を呼び出し、説教を始めた。

「なんで提出しなくなったの?私は提出しなさいと言ったよね!」

「だって業務上関係ないですし」

「え?」

「あんな報告書、会社の指示じゃなくてただの山田さんの指示じゃないですか。なんでいきなり私だけあんな報告書を書かないといけないんですか?嫌がらせですか?」

「そんなつもりじゃない。私はあなたの為を思って」

「私の為?私はあなたの要求する事をこなしていったら自分の時間が無くなりました。そのせいで結婚を考えていた彼から振られました。あなたのせいで私の人生が壊れそうです。勝手に私の人生に踏み込んでこないでください!!」

彼女は今までの鬱憤を爆発させた後、最後に一言だけ言って私の前から去って行った。

「当たり前のコーディネートしか思いつかない個性のない山田さんにみたいにはなりたくないんで」

彼女は翌朝退職届を持って出社してきた。それが彼女と最後のやり取りだった。


「なんか山田さん、イメージ変わった?決して悪くないんだけどさ、何というか個性がないというか、普通というか。もちろん一般ウケするのは間違い無いんだろうけど」

暁子が私の元を去ってから頻繁にこんなような事を言われるようになった。

普通・平凡・一般的

「人は着ている服のような人になる」

ナポレオンがこんな言葉を残していた気がするけど、

「人は自分の名前のような人になる」

これは私が後世に残す言葉だ。

山田花、こんな平凡な名前の私だ。個性なんてなくて当然だ。

考えてみれば当然だ。今までの私の服装は、自分の容姿に頼りきったコーディネートで、雑誌のマストバイとか、モデル着用とか、服がどうこうってよりもそういうもので選んでいた。だから自分の感性で服を選んだ事なんてほとんどなかった。とりあえず流行りの服を着ていれば、とりあえず自分は可愛くいられたから。

「当たり前のコーディネートしか思いつかない個性のない山田さんにみたいにはなりたくないんで」

暁子に言われた言葉が、毎日のように脳内で再生されていた。私はその音をかき消すかのように、とにかく仕事に没頭した。

いつの間にか笑う事も忘れるくらい、仕事に没頭した。

そんな昔の事を思い出しながら私は今流行りのバインミーサンドイッチを食べる。


その日は朝からテレビ局の女性アナウンサーのスタイリングの仕事が入っている。よりによってその女性アナウンサーとは先日私が強く言ってしまった、あの中島由美アナウンサーだ。

「普通気まずくて他のスタイリストに依頼しないか?」

そんな事を思ってたけど、今回は仕事だ。割り切って仕事をするしかない。

「先日は大変失礼な事を言ってしまい、申し訳ございませんでした!」

会うなりいきなり、中島さんは私に頭を下げて来た。こんな対応されたら私は許すしかなくなる。

「いえ、こちらこそ大人げない対応取ってしまい申し訳なかったです」

ひとまずその場は和解した雰囲気を出してその場はなんとかおさまった。

仕事に手を抜く事は一切しないので、私は一生懸命彼女に合うスタイリングを考えた。彼女も私のスタイリングを気に入ってくれたみたいだった。

「やっぱりトップスタイリストの方にスタイリングしてもらうと雰囲気全然違いますね!私このスタイルとっても好きです!」

中島さんは目を輝かせながら私を褒めてくれた。その表情からお世辞じゃない事が伝わる。

「あ、そうだ。この間のお詫びにと思って、花さんに是非聴いてほしい曲があるんですよ」

普通お詫びの品ってお菓子とかじゃない?ついそんな事を思ってしまった。

「そうなんですか、ありがとうございます。どんな曲ですか?」

Ms.OOJAさんっていう歌手で、『花』っていう曲なんですよ。あ、いま曲名だけで選んだと思いましたよね?違うんですよ!この前の取材で伺った内容と歌詞が妙にリンクしてる気がして!私もこの前の番組で紹介されてから知った歌手なんですけど、すごい女性の気持ちを上手く代弁してくれていて。ちょっと今音楽流してもいいですか?」

「ええ、ぜひ聴いてみたいです」

中島アナウンサーは自分のスマホから曲を流し始めた。

 

———————————————————

言葉に出来なくて 一人で抱えて

こらえた涙さえ笑顔で隠した


本当の私きっと

そんな強くないけど

負けそうな夜はそっと

一人つぶやくの


明日がまた来るなら

花のように 笑おう

千切れそうな痛みのぶんだけ

咲き誇るように


消せない過去がまた

胸を締め付ける

ただ流れゆく時間は

逃げ道も教えてくれたけど


真っ直ぐ進むことを

恐れなかった日々に

もう戻れないことも一つの答え


明日がまた来るなら

花のように 生きよう

通り過ぎた痛みのぶんだけ

咲き誇るように


いつの間にか 忘れていた

張り裂けそうな心

声を上げて 笑ってた 泣いていた

失くしたものだけじゃないよ

優しさだけは忘れたくないから


明日がまた来るなら

花のように 笑おう

千切れそうな痛みのぶんだけ

咲き誇るように

私を生きよう

————————————————————

 

本当に自分の事を歌っているかのような曲だった。

「ね、なんか花さんの事を歌ってるみたいな気がしません?」

「中島さん、ありがとうございます。一つ聞いてもいいですか?」

「私で良ければ!」

「私のスタイリングって個性的ですか?」

思いがけない質問だったらしく、彼女は一瞬困惑した表情を見せ、少し考えてから由美は答えた。

「個性的というか、花さんらしいですよね、すごく」

「私らしい・・・ですか?」

「はい、すごくベーシックなんだけど、その中に必ず一点目立つポイントを置くというか。それがすごく花さんらしいと思います。それが花さんの個性なんだと思いますよ。だから、そのままで、今の花さんで大丈夫です!」

そっか。私は「個性」を人と違うものだと勝手に思い込んでいた。人と違うのが「個性」なんじゃなくて、自分らしい事が「個性」なんだ。誰かの真似なんかしたって意味ない。


花:可愛らしいイメージがありながらも、踏まれても踏まれても咲いていけるような強い力を持っている。たとえ、逆境にあってもそれをバネにして、咲き誇れるように。


花のように、

咲き誇るように。

私を生きよう。

愛しい人よ

「今日も元気にいってらっしゃい!」

由美が元気にそう言うと、番組はすぐに次の番組へと切り替わった。

「お疲れ様でしたー」

「お疲れー」

「お疲れ様でした!」

次々に由美に労いの言葉がかけられる。

「ふぅー、お疲れ様でした」

最後に自分で自分を労う。今日もまた由美はプレッシャーに押し潰されそうになりながらも、何とか生放送を乗り切った。


テレビ局のアナウンサーとして今年の春から働き始めた中島由美。朝の情報番組のレギュラーに一年目から抜擢され、その三ヶ月後にはメインMCになった。これは異例の出世という事でマスコミ達にやたらと騒がれた。世間では「ナカユミ」の愛称で親しまれ、今年の夏に発表された好きなアナウンサーランキングでいきなり第三位に選ばれた彼女はまさにこれからの女子アナ界のエースという事で、彼女の周りにはいつも人があふれていた。社外でもパパラッチに追われ続け、プライベートなんてものは彼女には存在しなかった。窓の外を覗けばいつもカメラを持った怪しい人や、不自然な高級車が停まっている。

「これが女子アナか」


ようやく念願叶って、内定を貰った。内定直後にはお母さんにすぐ連絡して、一緒に泣きながら喜んだ。幼い時からアナウンサーを目指していたけれど、きっかけはとても単純だった。幼稚園の頃に日本でワールドカップが開催されて地元の新潟がキャンプ地に選ばれた。両親に無理やり連れられて新潟空港に行った時に見たイングランド代表のベッカムに一目惚れした。彫りの深い顔、笑うと急に可愛く見える顔立ち、歩くたびになびく金髪。まさにサッカー界の貴公子だった。それ以来、そんな王子様のようなベッカムのお嫁さんになる事が夢となり、どうやったらベッカムと知り合えるかを母親と考えた結果、アナウンサーになる事だった。もちろんベッカムのお嫁さんになるという盛大な不倫計画はすぐになくなるのだけど、それでも漠然とアナウンサーへの憧れは残り続けた。なんとなくだけどアナウンサーには学歴が必要だと思ったから、勉強は一生懸命頑張った。ベッカムとの結婚は諦めたけど、サッカーはずっと好きだったからその影響で小学校・中学校はサッカー部に所属し、高校・大学はサッカー選手を応援する為にチアリーディング部に入部した。

その大学時代に陽介と出会った。

陽介とは大学時代から付き合い始め、今では同棲もしている。もちろん結婚も考えているけど。でも今は完全に冷え切っている。アナウンサーになる事を応援してくれて、内定をもらった時は自分の事のように喜んでくれていた。

でも、いざアナウンサー生活が始まると陽介との溝は深まっていく一方だった。月曜日から金曜日までは毎日九時に寝て、一時半に起きる生活。一緒に暮らしているはずなのに平日は顔を見る事がない日さえある。土日は私も陽介も休みだから最初の頃は一緒に出掛けていたけど、ゴールデンウィークの頃になるとすでに私の周りには週刊誌の記者が張り付くようになった。会社に同棲してる彼の存在は伝えてないけど、会社の方から「しばらくは男関係に気をつけてくれ」と言われた。

「私はただの会社員なのに」

アイドルでもタレントでもなんでもない、ただのテレビ局の社員なのに。私は憧れのアナウンサー生活が嫌になっていた。

「私はアナウンサー向いてないんじゃないか」

そんな事さえ思い始めた。


就活中すごく覚えてる事がある。今の局の書類選考を通過して向かった集団面接。私は自信がなかった。いや、最初はあった。でも集団面接を一緒に行う四人の自信満々な感じが怖くて、自信がどんどんなくなっていった。自己PRの順番は自分が五人の中で一番最後。他の人のやり方を聞いてからできるので、正直ツイてるなと思っていた。でもそれは浅はかだった。他の人達の自己PRは完璧だった。意外性というのはあまり感じられなかったけど、百点満点の自己PRに感じた。特に四人目の人は凄かった。見た目、受け答え、全てがアナウンサーそのものに見えた。その流れを受けて私の番になった。

「では、最後に中島さん、お願いします」

「…い」

緊張が急に襲ってきて、喉が一瞬でカラカラになる。おそらくちゃんと返事は出来ていなかっただろう。

「…」

あれ?なにを言おうとしてるんだっけ?ん?そもそも私はなぜここにいるんだ?

息を飲むのも喉が痛むほど喉がカラカラになり、一瞬で頭が真っ白になり、私は何をしたいのかわからなくなった。

「中島さん?自己PRと志望動機をお願いします」

「え。は、はい」

すると私は何故か急に席を立ち、踊り始めた。ずっと頑張ってきたチアリーディングを。

「ゴー!ゴー!ファイトー!!」

そして踊り切ってしまった。頭は真っ白でも体はチアリーディングの踊りを覚えていた。むしろそれしか覚えてなかったというか。でも私は踊ってる最中、心を落ち着ける事が出来た。自分が準備していたセリフも、自分がここにいる理由も思い出せた。

「今私は正直自信を失いかけてましたが、自分自身を応援する事でやっと気合が入りました!私は学生の時にチアリーディングをしていて常に人を元気づけたり、応援していました。社会に出たらよりたくさんの人達を元気づけたり、応援したいと考え、たくさんの方々にエールを送る事ができる職業であるアナウンサーを希望します」

まあ完全に落ちたな(笑)


「今日も元気にいってらっしゃい!」

いつもの癖でテレビをつけると、面接に臨んだテレビ局の朝の情報番組が放送されている。

人が落ち込んでるっていうのに、この人は呑気だな。完全な八つ当たりをしながら、ケトルでお湯を沸かしてからスマホをいじる。LINEとメールが一件ずつ来ている。ドラッグストアのクーポン付きのLINEが一件と「面接選考結果のご連絡」という件名で知らないアドレスからメールが来ている。アドレスの@以下が面接に行ったテレビ局の名前になっている。結果はわかってはいても改めてメールを読んで現実を知るというのはなかなか酷なものだ。

「時下、益々ご健勝のことと存じます。先日はお忙しいなか面接にお越しいただき、誠にありがとうございました。厳正なる選考の結果、次回の面接に進んでいただきたくご連絡差し上げました」

え??

「つきましては、下記リンクにて面接候補日をお送りしますので、ご希望の日時を三つまでお選びください。面接の場所は添付ファイルの通りです。調整のうえ、ご連絡いただきますようお願い申し上げます」

えぇー!!

待って、待って!!え!?あの内容で受かったの?いきなり踊り始めた奴が受かるの!?

あまりの嬉しさで、由美は二日連続で踊っていた。

頭が真っ白になった後、ヤケクソで踊った面接でまさか合格をもらい、あれよあれよという間に内定をいただいた。その最終面接で思わず私は聞いてしまった。

「はい、こちらかの質問は以上になります。長い間ご苦労様でした。もうここからは面接とは関係ない事にするから中島さんの方から何か質問はありますか?」

この手の質問で、本当に面接とは関係ないと思ってしまうほど私はピュアじゃないけど、つい私は本音で聞いてしまった。

「あ、あの、なんで私がここまで進めたのでしょうか?」

「え?」

面接時に自分を下げるような事は言ってはいけない。こんなのはバイトの面接を受ける高校生でも知っている。それなのに私はついつい気が緩みそんな事を聞いてしまった。

「中島さん、あの時正直緊張しすぎてテンパってたでしょ?」

「は、はい」

「それで僕らの質問なんて耳に入ってなかったでしょ?」

「は、はい。その通りです」

「僕らもあの時点でもうダメかなって思ってたんだけど。でもあの後中島さんいきなり踊り出したでしょ?あの場のあの空気で、いきなり踊れるなんて並の心臓じゃないなって思ったんだよ。だって就職活動の面接でだよ?下手したら人生変わるかもっていう大切な場面で頭が真っ白になった状態で踊れるなんて並の人間じゃできないよ(笑)」

私は自分が今けなされているのか、褒められているのかわからなかった。

「アナウンサーっていう仕事はね、確かに視聴者の方達からしたら華やかな職業に見えるけど実際は過酷そのもの。朝の情報番組の担当になったら朝もとても早いし、ほんと過酷そのものなの。それに生放送なんて間違えたらそれこそ取り返しつかないしね。でも僕らはあの時の中島さんを見て、『あ、きっとこの子なら窮地に立たされてもなんとかしてくれそうだな』って思ったんだよ。だって面接中にいきなり踊り出す人なんて今までで初めての経験だもん(笑)だから君はここまで進んだ。こんな回答で大丈夫かな?」

「は、はい!ありがとうございます!ご期待に応えられるようにこれからも頑張ります!!」

まだ受かってもいないのに、あたかも合格した前提で受け答えする奴なんて初めてだ。私は今でもたまにアナウンス部の中田部長に面接の事でからかわれる。


なんで私があの時受かったんだろう?朝の情報番組を終えた由美はこの後一件取材をしてから帰宅というスケジュールになっている。取材先へタクシーで向かっている中、ぼんやり昨年の面接の事を思い出していた。

内定貰った時はあんなに喜んでいたのにな。間違いなく人生で最高の瞬間だったなぁ。これからの人生、絶対に不幸しか訪れないだろうなって思ってたけど。まさか、この仕事が嫌になるなんてな。

あの時の元気なんてすっかりなくなった由美はタクシーの中で疲れ切っていた。時間はまだ午後二時。今までは、朝の情報番組は大変だから慣れるまでは他の仕事を入れないようにと会社が配慮してくれていたが、そろそろ大丈夫だろう、という事で今日から週に一日別の仕事も入れてみて徐々に慣れようという試みがスタートした。初日の今日はこれからファッション誌のスタイリストさんの取材を行う。なんでもインスタのフォロワー数が十五万人というものすごい人気者(ちなみに私は九千人。新人でこれは結構すごいんですよ)。自分からしたらとんでもなく遠い世界にいるような人だけど、「山田花」という名前はどこか親近感がある。自分の似合う服とかも教えてもらおうかな、そんな事を考えていると気がついたら私は夢の中に落ちていた。


「まさーん。中島さーん!出版社、着きましたよ」

「え、は、はいー」

私はタクシーの運転手さんに起こされるとそのままの寝ぼけた状態で取材先の出版社へと入った。

「恐れ入りますが、本日のご用件をお伺いしてもよろしいでしょうか」

エントランスに入るなり、いきなりモデルさんのような受付の女性に不審者扱いされて少しムッとしたけど、そういえば中田部長に、入ったらまず名刺を二枚提出して、受付作業を済ませろと言われていた。

「私本日三時から、山田さんの取材をさせていただく中島と申します。よろしくお願い致します」

そう言って私は名刺を二枚提出する。

「中島様ですね。お待ちしておりました。こちらのエレベーターから十三階にお上がり下さい」

私が来る前から喉元に準備していたであろう言葉を受けて、私は十三階へと上がる。


「お忙しい中、お越しいただきありがとうございます」

「こちらこそお忙しい中、取材の時間を設けさせていただきありがとうございます」

社会人のビジネス挨拶というのにはいまだに慣れない自分がいる。自分に父親ぐらいの年齢の男性と挨拶を交わした後、会議室のような所へ案内された。

「初めまして。本日取材を担当させていただきます、中島と申します。本日は一日よろしくお願い致します」

「初めまして。弊社の雑誌スタイリストを担当しております。山田と申します」

目の前にいたのは先ほどの受付の女性よりもさらに綺麗な女性だった。スーツ姿がとても似合っていた。山田さんから受け取った名刺には、やっぱり親しみやすい名前が書かれていて、少しだけホッとする。眠たい気持ちを堪えながら、

「では、さっそく取材のほう、始めさせていただきます。山田さんがスタイリストを始めたきっかけは?」


取材は予定通り、順調にスムーズに進んでいった。

実はアナウンサーになって初めての取材だったけれど、私の中では十分合格と言えるんじゃないかという取材内容だったと思う。会社から用意された台本は予定通り終わったので、最後に少しアドリブを入れてみた。

「では、最後に、これは完全に私ごとになってしまうのですが、花子さんから私にコーディネートのアドバイスをいただきたいのですが(笑)」

「と、言いますと?」

「実は私、自分の私服があまり自信なくて。せっかくなので花子さんに私服のアドバイスをいただきたいのですが!笑」

「そんなの台本にありました?」

山田花子さんの一言で一気に現場が凍りつく。

「あの、勘違いしてほしくないんですけど、私は仕事だから人のスタイリングを決めているんです。今あなたは私にスタイリングを決めろとおっしゃいましたけど、その分ちゃんと代金はお支払いいただけるのですか?代金を支払う気もないのにそんな軽はずみな事を言われると我々の仕事の価値が下がってしまうんですが。それともあなたはプライベートな時間でも色んな方々に取材を行っているんですか?

「い、いや、それは・・・」

「それなら私も嫌ですよ。それに、それに私は山田花子ではありません。山田花です!人の名前も覚えられないなんて社会人として大丈夫ですか?」

そう言い残して、山田花さんは席を立った。


やってしまった。今の私にはもう踊れる元気は残っていなかった。なんであんな事言ってしまったんだろう。なんで名前を間違えてしまったんだろう。確かに社会人にもなって相手の名前を間違えるなんて、とんでもなく失礼な事だ。やってしまった。今日は金曜日。とりあえず今日はこのまま帰って、次に出社するのは月曜日だ。きっととんでもなく怒られるんだろうな。考えるだけでもう出社したくなくなる。言い訳して許される訳ではないけど、今日の私は完全に疲れていて、タクシーで眠ったのがいけなかった。そのまま寝ぼけた状態で取材に臨んでしまった。でももう、時間は戻ってこない。山田さんの言う通りだ。私はアナウンサーどころか、社会人としてもまだまだ未熟だ。

思わず泣きそうになってしまうけど、ここで泣いてしまったら後方から尾けている週刊誌の記者の思うツボだ。

「朝の顔、ナカユミ!『今日も元気に行ってらっしゃい!』裏では泣いていた!!」

こんな感じで書かれるのは悔しい。記者の思い通り、テレビとは別の顔があると知られるのも悔しい。だから私は必死に涙を堪える。

「あなたはプライベートな時間でも色んな方々に取材を行っているんですか?」

山田さんに今日言われた一言。いつも私を尾けまわす記者の人達をいつも軽蔑していた。人のプライバシーを侵害する仕事が楽しいのかと。でも今日私はその大っ嫌いな記者と同じような事をしてしまった。

「私、なんか社会人になってから性格悪くなったな・・・」

昔からお母さんに言われていた事がある。それは「絶対に人の悪口を言わない」という事。人の悪口を言うと口の形が悪くなるよって言われてた。それに人の悪口を言う時点で、相手の悪い所に目が向いている、だから相手の悪いところばかりに目を向けちゃダメって小さい時から教わった。それなのに、私はいま人の悪い所ばかりに目がいってる。

番組で取り上げる芸能ニュースも、○○が不倫だとか、浮気だとか、離婚だとか、失言だとか、人の事を下げる記事ばっかり。本当はそんな内容ばかり取り扱うのは嫌だ。いつも思う。周りがとやかく色々言って騒ぎ立てるのは余計なお世話だ。そうやって人の悪い所ばかりに目を向けちゃうのは良くない。不倫も、離婚も、失言も、そんなのは当事者達が決めればいいだけの事。そんなに人を責めて気持ちいいのか。・・・まぁ私が報道している内容でそのような世論を助長させているのは間違いない。

「お母さん、ごめんね」

朝の顔、ナカユミ。裏では泣いていた。


「ただいま」

家に帰ったけど、やっぱり陽介はいなかった。今はとにかく陽介に話を聞いて欲しかった。とにかく陽介の胸で泣かせて欲しかった。ただ、それだけでよかったのに。陽介が帰ってくるまで待ってようと思っていたけど、今日の私は少々疲れ過ぎていた。気がつくと私は寝てしまっていた。

次の日の土曜日、朝起きるといつも隣にいるはずの陽介の姿がなかった。「あれ?」と思い、一気に目が覚めた。テーブルの上には置き手紙が一通。

「ずいぶん疲れているようなので、この週末は友達の家で過ごします。由美は「いってらっしゃい」っていつも言っているけど、おれは一度も言われた事がありません。おれたち、少し距離が必要かな?笑」

なんでそうなるの・・・。

ずいぶん疲れているから陽介が必要なのに。なんでわかってもらえないの。それに最後の一文。語尾に「笑」がついているという事は陽介の本音だという証拠だ。そのやけに短い手紙に雫が一滴、また一滴と垂れていく。気がつくと手紙はぐちゃぐちゃに濡れていた。


「ゆう?どうしたの?こんな時間に電話なんて。珍しいねっか」

私は一人でいる事に耐えられず実家のお母さんに電話していた。お母さんの方言を聞くと心が落ち着くのだ。

「あ、お母さん?ごめんね、急に」

「朝ごはんも片付け終わったし、大丈夫らよー。どうしたの?」

「う、うん。いや。なんか私アナウンサーに向いてないかもって」

「え?急にまたどうしたの?嫌な事でもあった?」

「嫌な事というか、どんどん自分の事が嫌になっていってさ。ほら、お母さん小さい頃よく言ってたじゃない?『人の悪い所ばかりに目がいくような人になるな』って。なんか私アナウンサーになってから性格が悪くなった気がして」

「まぁ報道する内容は良い内容ばかりじゃないっけね。確かに嫌な事とかひどい事を言う機会も増えたかもしれないけど、でもあんたはそれ以上に毎日素敵な言葉を言っているからいいじゃない!」

「そんな素敵な言葉なんて私言ってるっけ?」

「あんた自覚持ってないのー?あんた毎日「いってらっしゃい」って言ってるじゃない!あんな素敵な言葉はないよー。お母さんもね、昔おばあちゃんによく言われたのよ『”いってらっしゃい”がこんなに気軽に言える世の中になって本当に良かった』って」

「それってどういう意味?」

「”いってらっしゃい”はね、”行って、無事に戻って来て下さい”っていう意味が込められてるんだってさ。逆に”いってきます”は、”行って、帰ってきます”っていう意味なの。でもおばあちゃんが戦時中の時は男の人達が戦場に行く時には、”いってらっしゃい”なんて言えなかったのよ。帰って来ることなんて願うなって」

毎日あんなに言っているセリフなのに、意味なんて考えた事なかった。

「だからお母さんもあんたを送り出す時は色んな思いを込めて送り出してたんだけどなー。『今日も一日頑張ってね』って思いながら『いってらっしゃい』って言ったり。とにかくまぁ一般人のお母さんにはあなたの辛さもわからないけど素敵な言葉を届ける仕事っていう事は間違い無いんだから頑張りなさいよ!あんな素敵な言葉を毎日視聴者の何百万人という人達に言える仕事なんてないよー。初心を思い出しなよ。胸が震えた、あの最高の瞬間をもう一度思い出して頑張んなよ」

『今日も元気に行ってらっしゃい!』確かに私は毎日このセリフをしゃべっている。でもそこに思いなんて乗せた事なかった。いつもは大嫌いな月曜日が少しだけ、ほんの少しだけ楽しみになった。


ピピッ、ピピッ、ピピッ、ピピッ、ピピッ

アラームの五回鳴った所でようやく目が覚める。「オ・コ・シ・テ・ネ」とお願いしたのは間違いなく私なのに、朝起きる瞬間アラームが憎くなるのは私だけではないはず。

「いつもは大嫌いな月曜日が少しだけ、ほんの少しだけ楽しみになった」

そう思っていたけど、いざ月曜日になるとやっぱり月曜日は憂鬱だ。

それに私の隣に今、陽介はいない。

「行ってきます」

願いを込めて「行ってきます」と一人で呟いた。


憂鬱な月曜日だけど、唯一楽しみな時間がある。それは番組終盤の「あなたのお目覚めソング」というコーナーだ。このコーナーは視聴者の方からリクエスト曲を募集して、番組内で紹介するというコーナー。普段自分が知らない曲を聴けるというのは良い気分転換になる。たまにダウンロードした曲の中から再生回数の少ない曲を聴くというのも良い気分転換になる。

「では、本日の『あなたのお目覚めソング』コーナーです」

「先週はあいみょんさんの『ハルノヒ』でしたね。中島さんもこの曲は好きみたいですね」

「曲なのに、小説みたいに物語になってる所がとっても好きです。では、さっそく今週の『あなたのお目覚めソング』です。東京都、瞳さんからのリクエストソングです。『同じ名前という事で仲良くなった高校の同級生に教わった歌手です。何気なく使ってしまう、いってらっしゃい、おかえりなさいの重みを再認識できる曲です』・・・。」

思わず言葉に詰まってしまう。先日お母さんに言われた言葉を思い出す。

「中島さん?」

「すいません!それでは聴いてください。Ms.OOJAさんで『愛しい人よ』」


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私の髪に触れる

優しいその手が好き

景色が輝いて見える

あの日も今も変わらず


トンネルの中 たった一人で

走り続けたその先に

こんな奇跡があるのならば

何も間違いじゃなかった


今日も願いを込めて 「いってらっしゃい」って

あなたが笑顔でいられますように

温かな声 溢れる場所へ 導いてくれたから

こんなにも 今幸せよ


2人の間 眠る

小さなその手が好き

触れると握り返して

寝息さえ全部 愛しい


疲れ果てたら 抱きしめたいの

そのぬくもりはいつだって

私の体 心までも

包んで癒してくれる


今日も感謝を込めて 「おかえりなさい」

あなたの笑顔が 私のちからよ

明るい光 照らし続ける どんなことがあっても

こんなにも 大切な人


想像もつかないような 未来がどこかで待ってるんだね

愛することで愛されてたと やっと気付いたの


今日も願いを込めて 「いってらっしゃい」って

あなたが笑顔でいられますように

温かな声 溢れる場所へ 導いてくれたから

こんなにも 今幸せよ 愛しい人よ

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目に涙が溜まっていくのがわかる。あとほんの少しで溢れてしまいそうになるのを必死にこらえながら進行を続ける。

「『中島さんがいつも笑顔いっぱいで言ってくれる、今日も元気にいってらっしゃいが大好きです。みんなが大好きな中島さんがいつまでも笑顔でいられますように』」

必死にせき止めていた涙が一気に溢れ出してきた。なんで不安やひどい緊張状態で、優しい言葉をかけられると人はこんなにも簡単に泣いてしまうのだろう。私はやっぱりアナウンサー失格だ。私は生放送で大号泣してしまった。

「な、中島さん?大丈夫ですか?笑」

「まぁ、僕らも視聴者の皆さんも中島さんの笑顔が大好きですからね」

「は、はい。・・・すいません」

あなたのお目覚めソングのコーナーの後は本来メインMCが占いを読むのだが、今日の私はそんな余裕はなく、先輩アナウンサーが代役を引き受けてくれた。その占いコーナーも無事に終了した後、

「はい、というわけで中島さんもう大丈夫ですか?最後はしっかりお願いしますよ」

「は、はい」


願いを込めて、

すべての愛しい人へ。

「今日も元気にいってらっしゃい!」

Be myself

「えー、ご飯連れて行ってくれるんですかー!嬉しいですー」

「好きな食べ物ですかー。たくさんあるんですけど、ウニが一番好きですー」

「え!本当ですか?嬉しいですー!来週の金曜日楽しみにしてますねー!」

森実悠はそんなに好きでもないウニを、そんなに好きでもない男と食べに行く約束をした。


森実悠が勤めているのは都内にある玩具メーカー

今日も五分おきに起こしに来るアラームの五回目でようやく眠たいまぶたを開ける事に成功した。さて、駅まではダッシュ確定だ、そう思いながらいつものようにテレビをつける。テレビには私よりも数時間も早く起きて、数時間も早く出社しているだろうに眠たい様子なんて微塵も見せずにキラキラな笑顔で朝から重ためのコンビニスイーツをほおばる、華やかに着飾った女性アナウンサー達がいた。

「もしかしたら私もここにいたのかなぁ」

女子アナ志望だった私が大手でもないちっぽけな玩具メーカーに勤める事になるなんて思ってもなかった。民放キー局のアナウンサー試験はいい所までは行ったのに最終的には全敗した。やっぱり見た目が重要なのかな。私だってそんなに悪い外見ではないはずだ。でもいざテレビに映っている彼女達を観るとやっぱり素材が違うというか、華が違うというか、そこは認めざるを得ない。

「今日も元気にいってらっしゃい!」

いつもと同じようにテレビの向こう側の中島アナウンサーがこれから憂鬱な仕事に向かう人達へ朝の情報番組ではお決まりのセリフを笑顔いっぱいに言うと、すぐに番組は次の情報番組へと変わった。彼女のこのセリフに元気付けられている人達はきっとたくさんいるんだろう。私にそんな能力があるとは思えないから、やっぱりテレビ局の人事部の目は確かだ。

このテレビ局のアナウンサー試験の書類を通過して、自信満々に二次の集団面接に向かった私だけど、その自信をものの見事に打ち砕かれた事を覚えている。五人一組で行った集団面接で、正直そのうちの三人よりは自分が勝っていると思った。容姿・出身校・話し方など全てにおいて私が勝っていた。ただ、ただ一人、その五人のうちのただ一人には全てにおいて負けていた。それが中島アナウンサーだった。いや、正直本当に彼女だったのかは自信ない。でもテレビの向こう側の彼女と、面接時の彼女の性格はあまりに酷似している。テレビの向こう側の中島アナウンサーは美しい容姿なのに、平気で変顔をしたり、体を張ったり、決して気取った態度を見せない所に彼女の性格の良さが滲み出ているし、たまにドジをする。そんなの人気が出るに決まってる。外見も良くて、性格も良くてたまにドジをする素朴さも兼ね揃えている。勝てるわけ無い。面接の時の彼女もそうだった。彼女以外の私を含めた四人はガチガチに固めてきたフレーズを面接時に披露していた。それはもうガチガチな定型文だった。例えば最初の自己PRなんて誰か間違えて自分の名前を面接明子と言っちゃうんじゃないかと思うぐらい、みんなが面接対策の例文をそのまま言っていた。とにかくみんな同じような事を言っていて、自分でもハッキリとつまらないと思っていた。でもそんな空気の中で、彼女はいきなり踊り出した。私達四人は「え!?」って感じでキョトンとしていた。そんなのはお構いなしに彼女は踊っていた。しかもめちゃ上手い。きっとこういう人の事をスターと呼ぶんだろう。きっとこういう人がアナウンサーになるんだろうな。私はこの時点で確信していた、私は彼女に負けた。

そもそも私がアナウンサーを目指す理由はただ一つ。「人に勇気や感動を与えたい」とか、「正しい情報を人々に伝えたい」とかそんな理由ではない。ただ、「玉の輿に乗りたい」からだ。


私の家はお世辞にも裕福とは言えない家庭だった。いや幼い頃は裕福だったと思う。父親は会社を経営していたし、お寿司も回らないのが当たり前だと思っていた。でも私が中学生の時に両親は離婚した。理由は父の多額の借金。ギャンブルや女に貢いだとかそんな理由だったら、父を嫌いになればいいだけだから良かった。けれど、父親は夢を追った。夢を追ってしまった。さらなる事業拡大を目指して借金をして、そのまま倒産した。それから毎晩借金取りが押し掛けてきて、家族三人の精神状態はかなりギリギリだった。それからしばらくして父と母は離婚した。母も私も父と暮らしたかったけど、父からするとこれ以上家族を苦しませたくなかったらしい。だから私達は何も言えず、そのまま別れた。

私は母に引き取られ、二人暮らしが始まった。私の意思に関係なく、親権が母親に移った。それから私はなんとなく自分が母の所有物みたいな感覚になった。私の意思は関係ない。私はそこらへんの物と同じように誰かの手に渡るだけ。そんな感覚がした。

二人暮らしが始まって、私は勉強に明け暮れた。部活をするような経済的余裕は無かったし、家には中学生の多感な好奇心をくすぐるようなモノは一つもなくて、私は家にいても勉強しかする事がなかったから。それに、

「あら、実悠この前のテスト100点だったの?良い子ね」

勉強さえすれば母は私を褒めてくれる。

「おたくの実悠ちゃんは頭が良くて羨ましいわー」

友達のお母さんが私を褒めるたびに母はすごく嬉しそうな顔をするから、だから私はとにかく一生懸命勉強した。

それは決して私の為じゃない。母の為。母の喜ぶ顔が見たいから。母に良い子だと言ってもらう為。

でもいつからか、「私は誰の為に生きてるんだろ」そんな風に思い始めてた。母を喜ばせる為に勉強を頑張り、母を困らせない為に良い子を演じていた。私の人生の主語はいつだって、母だった。

母を喜ばせる為に勉強を頑張ってきた私、学校の成績も右肩で上がり、テストのたびに学年順位は上がり続けた。テストの成績が学年一位になったあたりから周りの反応は変わってきた。

「あいつの家は貧乏。貧乏だから勉強しかやる事がない」

「あの筆箱、ダサいよね。貧乏くさいし(笑)」

女というのは、不思議な生き物だ。問題にもしない女に対してはとことん優しくなれるのに、自分よりも上の存在だと認めた途端に、嫉妬を始める。私は正直自分の顔に自信はある。中学生になってから、先輩・同級生・後輩含め六人から告白をされているし、校内ですれ違う男子がちらりと私に視線を向けている事にも気づいている。

自分は普通の女よりも可愛いんだ。

それを自覚するようになってから、その期待を裏切らないように髪型・服装・仕草など、自分の努力でなんとかなる事に関しては努力を怠らなかった。それは一つの責任だ。美しい者はいつだってプレッシャーを背負わなければいけない。

だから私は周りの女からの嫉妬から来る悪口、嫌がらせは全然気にならなかった。

繰り返し言うけど、女は問題にもしない女に対してはとことん優しくなれるから。

絶対に良い大学に行って、良い会社に入って、玉の輿に乗るんだ。良い男性を捕まえる為には自分が上流に行く必要がある。上から流れてくるおこぼれを待つなんて絶対に嫌だ。上流で他の女の目に止まる前に私が絶対に良い男を捕まえる。その為なら、周りの女達に何を言われようとも、私には関係ない。所詮周りにいる女達は平均値の中でしか生きられない退屈な女達だ。私は努力して絶対に上流に行くんだ。そう決めていた。

 

私は基本的に男性を試す時は、「ウニが食べたい」とお願いする。別に特別ウニが好きな訳ではないけれど、どのレベルのお店に連れて行ってくれるかでその男性の経済レベルが測れる。もちろんそのウニのレベル次第で次回に繋がるかどうかが決まる。自分でも腹黒いなとは思う。でも仕方ない。私にはそうやってちょっとぐらい姑息な手を使わないと、玉の輿には乗れないんだから。アナウンサーになれていたら、プロ野球選手や実業家とかと合コンをしたりして、簡単に正統派のやり方で玉の輿に乗れたんだろうけど、私は小さな玩具メーカーに勤める一般人だ。

会社の同期の池谷香澄のように冴えない会社の先輩と社内結婚なんて絶対に私はしない。しかもその先輩は後輩にどんどん出世を追い抜かれているような人だ。そんな人と結婚して幸せになんてなれるわけがないのに。私の方が絶対に幸せになれる、競っても勝ち負けが永遠につくことがないような勝負で森実悠は人と競っていた。


「この前の投稿は”いいね”が四十三個かぁ」

「なに見てるの?あ、ディズニーランド行ったの?いいなー!しばらく行ってないなー。今度涼に連れて行ってもらおうっと」

会社勤めだと唯一の楽しみなんてお昼休憩ぐらいだ。私はその貴重な時間を同期の池谷香澄と過ごしている。

この時森実悠は先週大学の友人達とディズニーランドに行った時の写真を見返していた。この時は久々に会った友人達と当時の思い出話に浸ってたくさん笑った事を思い出している。訳ではなく、その下に表示されている”いいね”を見返している。

「ちょっと、社内でノロケるのやめてよねー」

「そんなんじゃないってば」

頬を紅くしている同期を見ていて思う。もし同じようなセリフを中島アナウンサーに言われたら私は同じようなセリフを中島アナウンサーにも言えるんだろうか。きっと嫉妬の念で同じようなセリフは言えないと思う。女ってどうしてこうも自分よりも下だと思っている女に対してだと優しくなれるのだろう。

「実悠は誰かいい人いないの?」

「んー、今は特にこれって人はいないかなー」

「そうなんだ、実悠っていつも誰かに恋してるイメージだった」

「別にそんな事ないよー。金曜日に食事に行く予定はあるんだけどねー」

「え?そうなの!?上手くいくといいね!応援してる!」

随分見下されている。上手くいくといいね、じゃないよ。私はあなたみたいに冴えない旦那を捕まえるつもりはない。私は絶対玉の輿に乗るんだ。


約束の金曜日。八個上で、上場企業の商社に勤める村上と恵比寿ガーデンプレイスで約束の七時からあえて十分遅れて合流した。

「すいませーん。ちょっと仕事が終わらなくてー」

ついさっきまでいたスタバで予習していたセリフをスラスラ言う。最初のデートではまず遅刻するのは鉄則だ。そこでの態度で、ある程度相手の器の大きさが測る事が私の中での目的だ。

「お疲れ様。全然構わないよ。大丈夫?疲れてない?」

ほぉ。この場面でいきなり相手を労えるのか。この男はなかなか上玉かもしれない。すでに心の中でそんな風な採点が始まっていた。

「予約していたお店、ここなんだ。最近オープンしたばかりなんだけど、なかなか予約取れなくてね。今日はたまたま予約取れて運が良かったよ」

「すごいお洒落ー!こんな所でご飯なんて食べた事ないですよー」

ついこの前も同じようなセリフを喋っていたけど、毎度同じテンションで言える自分がたまに怖くなる時がある(笑)

「なんか実悠ちゃん、仕事終わりだと雰囲気がガラッと変わるんだね。すごい大人っぽい」

村上とは先月、日本酒の会で知り合った。日本酒の会とは日本酒が好きな人達が各々好きな日本酒やおつまみを持ち寄り、十人程の規模でマンションの一室で親睦を深めるという会だ。正直とてつもなく怪しいとは思う。でも参加者はなかなか経済力の高い人達ばかり。会社を経営している人もいれば、外資の証券会社で日々億単位のお金を動かしている人もいる。私は大学時代に銀座のクラブでアルバイトをしていた。その時のツテで今でもこのような上流の集まりに呼んでもらえる。ただの小さな玩具メーカーに勤めているだけでは絶対に縁のない場所だ。村上はこの日本酒の会の中で一番若く、センスが良いように感じた。

「実悠ちゃん、この前会った時は大学卒業したてって感じだったのにね(笑)」

「それって褒めてますー?笑」

「褒めてる!褒めてる!」

この男もちょろいもんだ。初対面では雑誌sweetに載っていた、可愛らしいモテコーデを上下一式揃えて挑み、今日の服装は雑誌oggiに載っていた、仕事後の大人のモテデートコーデを上下一式揃えて挑んでいる。完璧だ。私の個性こそないものの、雑誌のスタイリストに任せたコーデで外した事はない。服を買う時に試着した事なんてほとんどない。本当の私はシンプルな服装が好きだから、上は白い無地Tシャツに下はデニムっていうコーデが好きだけど、そんな服装は間違いなくモテない。だから雑誌のマストバイとか、鉄板とか、インスタでの人の評価を見て服を買っている。自分が似合っているのかはわからないけど、周りの人達はよく私の服装を褒めてくれる。でもそれが私に対してなのか、服に対してなのかはわからなかった。

今回の村上はかなりの上玉だった。お店のセンスもいいし、何より素敵な人だった。私や店員さん、誰に対しても対等に気さくに話し、年齢や人生経験の差を感じさせなかった。礼儀正しく、会話を楽しむ事を知っていた。人を笑わせる事を心得ているばかりでなく、人の話に笑いで応えるという礼儀もわきまえていた。それにオーラというか色気があった。おそらくこれまでにたくさんの苦難を経験して、そしてそれらを乗り越えてきたんだろう。その自信と余裕からくる色気を纏っていた。

「で、この後どうする?雰囲気の良いバーがこの近くにあるんだけど、行かない?もちろん実悠ちゃんの時間があればの話なんだけどさ」

「もちろん、行きます!」


私は正直この時点でかなり村上に惚れていた。最初は確かに経済レベルで判断していたけれど、彼は中身も魅力的だった。お金持ちの人ほど中身が残念だったりするから正直この男を逃すのはかなり惜しい。このレベルに出会えるチャンスはなかなかない。なんなら今夜勝負を決めても良いかもしれない。そんな事を考えながら、村上の後ろをついていく。

村上が紹介してくれたバーは地下にあった。その階段を降りながら、この短い距離を歩きながら私は変わる。表向きの顔から私的な顔へ。OLから女へ。

「飲み物はどうする?」

「村上さんにお任せしますよー」

「了解。そしたらマティーニでいっか」

「はい、よろしくお願いします。ちょっと私お手洗い行ってきますね」

トイレに入るなり、鏡で顔を確認する。

「うん、問題ない。今日も綺麗だ」

鏡に映る自分が日常の顔ではないという事ぐらいわかっている。でもそれは女なら全員一緒だ。隣で同じように入念に化粧を直している女もきっと今夜勝負をかけようとしているんだろう。でもきっと私の獲物の方が上玉だ。


化粧を直した後、ただ普通に席に戻ったんでは意味がない。ここは二十三歳、若さという武器を使おう。後ろからいきなり声をかけて驚かせよう。大人っぽいお店で、あえて子供っぽい事をしてみる。案外このギャップで男はやられるものだ。どうやら彼は今スマホをいじっているようだ。実悠は息を殺しながら、村上に近く。声をかける寸前で、薄暗い店内で、彼のスマホの画面がハッキリと光っていた。

「今一緒に飲んでる女、超ちょろいわ!若いから余裕で引っ掛けられそう(笑)」

私は席に戻ると、何も言わずに村上を後ろに置いていく。


外に出ると一気に虚しくなってきた。本当の自分には似つかわしくない大げさなネオンが明るく照らす通り。

「私は一体何がしたいんだろう」

「私は何がしたくて生きてるんだろう」

わざとらしく明るく照らす明かりを避けるようにして、実悠は薄暗い路地で一人涙を堪えていた。カバンの中ではさっきからスマホが震えている。相手は誰だかわかっている。震えが終わった事を確認すると、スマホには一件のメッセージが入っていた。送り主は同期の香澄からだった。

「今日の食事どうだった?上手くいってますように」

同期からはそんな無邪気なメッセージが届いていた。そのメッセージを読んだ途端、溢れるように涙がこみ上げてきた。人は張りつめている時に優しくされると、人は糸が切れたような気分になってしまう。

泣いている事がバレたくなかったから、軽くメッセージを送る。

「ダメだった。急に何の為に生きているかわからなくなってきた。あ、もちろん自殺なんてしないよ(笑)」

重くなりそうだったから慌てて、笑いに変えてみる。

すぐに香澄からメッセージが届いた。この薄暗い路地に逃げ込んだ私を照らしてくれる唯一の光は香澄からのメッセージだけだった。

「そっか。Ms.OOJAっていう歌手知ってる?Be myseifって曲聞いてみて!!元気出して、あの最強の笑顔をまた来週も見せてね!お疲れさま!」

Ms.OOJA?誰だろう。わからないや。とりあえず何かにすがりたくて、私はYouTubeで検索するけれど、それらしき曲は見つからない。それでもどうしてもMs.OOJAのBe myselfが気になってしまった私はiTunesでダウンロードしてみた。

 

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なぜ生きてる?ってもしも聞かれたら

私はなんて答えられるかな

沈みゆく夕陽に問いかけてみても

答えは夜に紛れてくの


幸せを求め 幸せを競って 誰かの“いいね”待って

だけど虚しくて

綺麗じゃなくても ちゃんと見ていたいの

フィルター無しの空の色


生きることに意味なんてなくてもいいの

追いかける夢なんてなくてもいいの

今日という日を過ごした私は

また明日を生きてくの


Be myself…

Be yourself…


なぜ独りなの? って簡単に言うよね

数え切れぬほど選んできたこと

どんな決断も 絶対なんてないけど

今日も私は笑えてるよ


切りたての髪を 鏡に映して

自分でイイネって 思えることがいいよね


歌うことに意味なんてなくてもいいの

清く正しくなんてなくてもいいの

今日という日を過ごした私は

また明日を生きてくの


好きな人と会って 美味しいものを食べて

特別な日があるのは

何でもない日に 生まれるドラマを

乗り越えてきたから


生きることに意味なんてなくてもいいの

追いかける夢なんてなくてもいいの

今日という日を過ごした私は

また明日を生きてくの


それでも私は歌い続けるだろう

それでも清く正しくありたいだろう

私だけの今日が始まる頃

誇らしくいられるように

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「おはよう!この前のデートは残念だったね。あれ?実悠なんか服装だいぶ変わったね」

上がただの白い無地Tで、下はただのデニムという今まで人前でした事がないようなシンプルコーデの私を見て、香澄が驚く。

「うん。ちょっと心機一転ね」

「そっか。でも今の実悠のコーデ、すっごい似合ってるよ!いいね!」

「ありがと!てか香澄が教えてくれたMs.OOJA、すっごくいいね!」


”いいね”なんてそんなたくさんはいらないのかもしれない。

たった一人の”いいね”があれば、本当はいいのかもしれない。

I'm ALIVE

田上が席に戻ると、堀さんがニヤニヤしながら嬉しそうに近づいてくる、

「どうだった?その顔見る限りおめでとうって言っていいんだよな」

田上は少し気まずそうに、はにかみながら答える。

「そ、そうですね、はい。ありがとうございます」

「なんだよ歯切れわりーな。無事に昇進したんだからもっと喜べよ。今日はお祝いだな、飲みに連れてってやるよ」

「は、はい。ありがとうございます」

田上はチラッとおれの方を見て、そしてまた気まずそうに先輩の方へと視線を戻す。

今年もまた、人事異動で長岡涼の名前はなかった。


「もう会社を辞めよう」

そんな言葉がさっきからずっと頭をよぎっている。もう何度この言葉がよぎったんだろう。若いからまだ転職先はいくらでもある、そう考え続けて気づいたらもう二十九歳になっていた。三十歳まではいくらでも転職できる。誰から聞いたのかもわからないし、なんでそんな事が言えるのかもわからないけれど、なんとなく聞いたこの言葉のおかげというか、この言葉のせいで自分は謎の保険に加入している気がしていた。でも、それもあと一年で有効期限が切れてしまう。

さっき内示を受けた田上は自分の二個下の後輩だ。新入社員の頃は自分が教育担当という事もあり、仕事の事、社会の事、色々教えていた。

入社三年目の自分が、

「どう?もう会社に慣れた?」

なんて自分がまだ慣れているかどうかもわからないのに、偉そうにそんな質問もしていた。

当たり前のように仕事をこなしていたから自分が仕事の「デキない」やつだなんて思ってもいなかった。

きっかけは去年の秋。

同期の堤が気まずそうに聞いてきた。

「涼ちゃん、今度の昇進試験の話って聞いてる?」

「え、昇進試験?なにそれ知らない」

「だ、だよな。おれは年末に昇進試験受けるってさっき人事の福田部長に言われてさ。ま、一応確認というかさ、隠す事でもないからさ」

「そうなんだ、教えてくれてありがとう。頑張って」

言葉だけは冷静だったけれど、胸が鉛のように重く、一瞬で黒に染められたような感覚がした。ありがとうも頑張ってもこんなに軽く使った事なんてなかった。

「きっと自分の事を忘れてて、呼び忘れただけなんだ」自分にそう言い聞かせてたけど、その後自分が呼ばれる事はなかった。

自分の何がいけないんだ?仕事だってミスなくこなしてるし、そんなに素行だって悪くないはず。

「もう会社を辞めよう」

報われない 楽しくもない

気が付けば愚痴ばかり言うようになっていた。

この会社にいても評価される事はない。自分を評価してくれる会社に転職しよう。おれはもっとデキるはずだ。

おれを随分可愛がってくれていた先輩はいつも言っている、

「長岡はなー、大器晩成タイプだから早くに結果が出なくても焦んなよ、絶対にお前は出世するから!おれが保証してやる!」

まあ、そう言ってくれた先輩は早々に転職して行ったけど。保証人がいない今、おれの居場所なんてこの会社にはないようなものだった。


「おれ、転職しようと思ってるんだけど、どうかな?」

長岡の家にはすでに人がいた。二年ほど前に仕事で知り合って、先月プロポーズした仁美。婚約者という事になるのかもしれない。

「え?転職急にどうして?なんでそんな大切な事いきなり言うの?もっと前もって相談してよ!」

「だからいま前もって相談してるだろ?」

「もっと前よ!今の会社に少しでも不満があったならその時からちゃんと相談してよ!」

「お前がいつも忙しそうにしてるから、相談する暇がなかったんだよ!」

つい声を荒げてしまう。最近仁美とはずっとこの調子ですぐ言い合いになってしまう。先週両親に紹介したのが原因であるのは間違いない、だから決しておれのせいではない。

まあ確かにおれの両親はよくわからない宗教団体に所属してる。生まれた時から両親が毎日十八時になると正座をしてお祈りをしたり、毎週土曜日に集会みたいなのに行って、帰りにトマトを家族分三個持ち帰って来るってのは他の人から変なのかもしれないけど、おれにとっては当たり前の日常風景だった。

 

はじめて「それ」がおかしい事だと気づいたのは小学生の時。

おれが席に戻ると、淳平がニヤニヤしながら近づいてくる、

「涼の両親ってどんな人?」

急に質問をされたものが今までの人生でされた事がなかった質問だったから、少しだけ隙間が生まれた。

「どんなって言われてもな、別に普通だけど」

なんとなくだけど両親を馬鹿にされているような気がして、つい強めに答えてしまう。

「普通の親ってトマト行くのか?」

淳平は自分の武器のほうが強いと分かっているからこそ、少し語気を強くしたおれに対しても一切怯まずニヤニヤを続けていた。ついに来たか。いつかは、と覚悟していた事だった。

トマトっていうのは地元にある謎の集会所の名前。誰が何の為に建てたのかもわからない。なんとなくだけど市が建てた公共施設ではないと思う。だってその建物の入り口にはいつも山盛りに盛られたトマトが積まれている。だからいつからか地元の中ではその不気味な建物はトマトと呼ばれるようになった。もちろんそんな不気味な建物に入っていく人なんてほとんどいない。ほとんどいないからこそ、その不気味な建物に入って行く両親を見られたおれは確実にいま劣勢というわけだ。

「…」

「よくあんな不気味な建物に入れるよな。あれ中で何してるの?」

「知らないよ、行った事ないし」

「うちの親が言ってたぞ、『長岡君の両親って何者なの?長岡君ともあまり関わらない方がいいんじゃない?』って」

「うるせーな。じゃあ関わるなよ」

「おー、こっわ。やっぱ関わらないほうが良さそうだな」

ここでおれが両親を敵にして、馬鹿にする側へと回ればおれの人生もう少し生きやすくなったのかもしれない。でも、両親を馬鹿にされて平気な奴なんているのか?

次の日長岡涼が登校して教室に入ると空気が一瞬で変わった。誰かが何かを言う訳ではないけれど教室の全員が一瞬で何か同じ空気を共有する気配。その瞬間胸がきゅーっと締め付けられ、自分のカラダの厚さ以上の胸の深い部分が一気に凍りつく。そして察する。「このクラスにもうおれの居場所はない」

それからクラスで、そして学年で自分とまともに口をきいてくれる人はいなくなった。

おれは両親のせいで友達と学生生活を失った。


それからの人生で何人の事を信じられたんだろう。仲良くなってもきっと両親の事を知られたらまた気味悪がられるんだろうな、そう思うと誰かと仲良くなろうなんて気持ち無くなっちゃうもんだ。

それでも両親を切り捨てる事が出来ないのは、おれが二人の子供だから。理由なんて他にない、それだけ。ただおれがいじめられたり、友達が出来ないのは両親のせいだという事に変わりはない。

それからの人生は、

おれは何か嫌な事があれば「親のせい」

何か怒られたとしても「周りのせい」

いつからか口癖になっていた「おれのせいじゃない」

 

だから、今回仁美と喧嘩した時も「おれのせいじゃない、両親のせい」という盾を持っているおれはやたら強気に出ていた。

「涼っていつもそうだよね。何かあるとすぐに人のせいにして!」

「人のせいにしてるのはお前だろ?結局結婚の話だっておれの両親のせいにして」

「そんな事言ってないじゃん!それに今は自分の転職の話でしょ?なんで転職したいの?どうせ逃げたいだけなんでしょ?」

プツン。

その瞬間頭の中のなにかが切れた気がした。心臓から頭へ一瞬で血が沸いていった。

そして思わず右手に力がこもった。

でもその場にいては仁美に手を出しかねない、かろうじて残っていた自分が自分を律していた。涼はなにも言わずに、ただその場を飛び出した。後ろから仁美の泣いたような声が聞こえた気がするけど振り返るほどの冷静さはとっくにない。


勢いに任せて飛び出した外では電柱の横で大きい猫と小さい猫が二匹喧嘩している。するとすぐに小さい方の猫がおれがいる方とは反対側に逃げて行った。

なんで逃げちゃダメなんだろう?

逃げて怒られるのなんて人間ぐらいじゃないのか?猫や他の生き物達は本能で逃げないと生きていけないのに、どうして人間だけは、

「逃げてはいけない」

なんでそんな答えに辿り着いたんだろう。そんな事を考えながら、おれは”逃げた”。


結局仁美とはそれから別れた。お互いの事が嫌になった訳じゃない。確かに言い合いは増えたけど、それで婚約が破談になった訳じゃない。やっぱりおれの両親が原因だった。どうやら仁美の実家にまで謎の冊子を送っていたらしい、親切に謎の像まで一緒に。そんなのどう考えたって結婚は反対するだろ。おれは両親を心の底から恨んだ。でも、でも嫌いになる事はやっぱり出来なかった。唯一の両親だから。

別れ際、仁美は涼に一言だけ言った。

「人のせいにばかりしないで、これからはいい加減自分の人生を生きてね」

「おれの親のせいで別れるくせに、よくそんなきれい事言えるな」

かろうじて喉に出かかった言葉を必死に飲み込んだ。

なんでおれだけがこうなんだ?おれがなにした?普通に仕事して、普通に遊んで、普通に生きてるだけじゃないか?なんでおれだけがこんな苦しまないといけない?両親の事なんておれにはどうする事も出来ないだろ?

これが生きるって事なのか?なんてキツイんだよ。なんて難しいんだよ。もうこんな思いするなら生きたくねぇよ。

初めて「死」ってのが身近に感じた。

 

長岡涼が勤めているのは新卒時から変わらない都内にある玩具メーカー

課長がおれの所にニヤニヤしながらやって来る。

「長岡さん、この前提出してもらった資料、誤字多すぎますよ。一度確認してから提出して下さいねー、ほんとお願いしますよー」

あえて周りに聞こえるように言ってるんだろうな、そう思った。目の前にいる二人の新入社員は二個下の後輩に怒られているおれを見て、どう思ってるんだろう?まあそんなのどうだっていいや。プライドなんてものはとっくに無いよ。

おれは転職しようと決心してから七年経った今でも結局当時と同じ会社にいる。七年前と同じ役職のまま、同じような仕事を今もしている。今年もいつもと同じように新卒の教育係という訳だ。今年で三十六歳。早いもんだ。

「どう?もう会社には慣れた?」

この質問をするたびに、やっぱりまだおれ自身が慣れてない事に気づかされる。

「ちょ、ちょっとまだ慣れてないです」

「え、ホントー?私はもう慣れてきましたよー」

今年の新入社員は二人。いずれも女性。うちは中小の玩具メーカーだ。売り手市場と言われる今の採用状況で男手はさっさと大手に入社してしまう。今年は初めて新入社員で男性が入社しなかった。だから今年の新入社員の教育は少しいつもと勝手が違った。

池谷香澄はいわゆる典型的な新入社員タイプ。真面目に言われた事をこなすタイプで、おそらくあまり怒られた経験もないだろう。怒るとすぐに泣いて辞めてしまいかねないから、怒るというより優しく諭すように注意しなければいけないタイプだ。

もう一人の森実悠はわかりやすくイマドキタイプ。敬語もうまく使えてないし、化粧も若干濃い。でもこういうタイプは意外と周りに気を遣えるし、飲み会時に上司に気に入られるタイプ。学生時代からたくさん怒られているだろうし、意外にガッツがあるタイプだろうから強めに注意しても、めげないタイプだ。

おそらく森実悠の方が出世するんだろうな。おれは勝手にそんな予想をしていた。

「今日の歓迎会、予約は大丈夫?」

部長が聞いて来る。

「大丈夫です。ちゃんと予約していますから。二次会のカラオケまで予約してます。この前みたいな事にはならないですから」

「それならいいんだけど、涼ちゃんたまにミスるからさ(笑)」

堤はおれのミスを今ではすっかり笑い話に変えている。


去年の新入社員の歓迎会で幹事を任されていたおれは周りを驚かせようと二次会のカラオケまで予約して押さえていた。以前、二次会でカラオケに行こうとした際に、どこもいっぱいで入れず人事の福田部長が機嫌悪くなり、雰囲気最悪で解散となった為、その教訓を活かして先にカラオケ会場まで押さえようというわけだ。

だけど当日全員で揃って一次会のお店に着くと、

「ナガオカ様ですか?本日のご予約はいただいてないようですが・・・」

一瞬で血の気が引いた。たしかに一次会のお店は決めたがその後、二次会のお店を探し始めたから、一次会のお店の予約をしていない気もする。

「あ、あの!そ、そしたら今から二十名入れないですか!?」

「申し訳ございません。あいにく本日は他の団体のお客様のご予約が入っておりまして・・・」

「そこを、そこをなんとか!」

「涼ちゃん、もういいよ。他の店を探そう」

同期の堤がその後、機転をきかせてくれて自分が行きつけのお店にみんなを連れて行ってくれてなんとか事なきを得た。

くそ、カラオケなんて予約しなきゃよかった。元はと言えば福田部長があの時不機嫌になんてなるからいけないんだろ。おれがふて腐れてるのを見たからなのか、

「みんなー!二次会はもちろん行くよねー?おれのデキる同期の長岡がカラオケ予約してくれてるよー!」

堤は出世するべくして出世したんだろうな。


今年こそはと思い、予約は何回も確認したし、なんならお店の下見まで行った。その甲斐あって今年の歓迎会はなに隔たりなく順調だった。新入社員の二人はやっぱり予想通りだった。

池谷香澄はお酒が弱いらしく、飲み物は早々に烏龍茶へとシフトし、周りの酔っ払いからの絡みをわかりやすく苦笑いで受けていた。森実悠もおそらくお酒は飲めないのだろう、さっきからグラスに入ったカラフルな飲み物を手にはしているが全く手をつけていない。だけどお酒を持っているという事でなんとなく周りと同じ空気を共有している感が出ている。周りの絡みに対してもとりあえず満面の笑みで対応している。「すごーい」「さすがですねー」「知らなかったですー」この三枚の手札で周りの酔っ払いを手玉に取るのはさすがとしか言いようがない。

時間がしばらく経って、気がつけば席の端で一人枝豆を食べている子がいる。ここで嫌な思いをさせて辞められたらおれに責任がくる。

「池谷さんはあんまりこういう場、好きじゃない?」

「あ、長岡さん。いや嫌いではないんですけど、やっぱり慣れなくて。なに話したらいいかわからくて」

「まあそうだよね。周りは酔っ払ってなに言ってるかわからないしね」

「いや、えっと。その・・・」

池谷香澄はわかりやすく困っていた。

「池谷さんは何色が好き?」

気まずい空気に耐えきれずとりあえず場をつなぐ為に適当な質問をしてみたけど、さすがに適当すぎた。池谷香澄はわかりやすく困っていた。


「じゃあ私トップバッター行かせていただきまーす!」

二次会のカラオケに着くと森実悠はいきなり「タッチ」を歌い始めた。つくづくこの子は凄いなと感心する。職場のカラオケはトップバッターが一番気を遣う。トップバッターの選曲と歌の上手さでそのカラオケの雰囲気は全て決まると言っても過言ではない。いきなり年長者がもろ世代を露呈する選曲をしては若者が萎縮してしまうし、その逆もまた然りで若者がイマドキの歌を歌っても、年長者が乗れずに盛り上がりに欠けてしまう。その点森実悠の選曲は満点だ。全員が知っている曲で、全員で盛り上がれる。歌も上手いようで若い女の子特有の謎の可愛らしさでみんながノリノリになっている。ここでも端にちょこんと座っている池谷香澄も何か曲を入れようとしている。こういう場面で曲を入れるタイプには見えなかったから少し安心した。ここでも自分が気を遣って話しかけてさっきみたいに困らせたくなかったから。

森実悠の出番が終わると、場はかなり盛り上がっていた。そこで池谷香澄の入れたイントロが流れ始めた。

「もしもはなくて」

その曲を知っている人は残念ながら誰もいなかった。一体なんの曲を入れたんだ?気になって見てみると、「さぁ鐘を鳴らせ」と出ている。歌手はドリカム。「ドリカムなら他になかったー?」みんなが同じ空気を共有していた。

「さぁ鐘を鳴らせ ちからふりしぼれ〜」

そんな空気は構わず池谷香澄は気持ち良さそうに鐘を鳴らしていた。


「じゃあお疲れさん!みんな気をつけてねー。また来週!」

堤がカラオケ後をきれいに締めて解散した。帰りの電車の方向が同じだった池谷香澄と二人で電車に乗っていた。

ティファニーブルーが好きです」

「え?」

「え、好きな色です。さっき長岡さんに聞かれたじゃないですか?好きな色。ティファニーブルーが好きです」

この子はもしかしたら天然なのかもしれない。好きな色でティファニーブルーって答えるか?普通女の子ならとりあえずピンクとか赤じゃないのか、そんな勝手な事を思いながら聞いていた。

ティファニーブルーってどんな色?」

「うーん、青というか緑がかった青というか。伝えるのが難しいですねー。あの色はティファニーブルーとしか言えませんねー。あ、パントーンカラーの『一八三七』って言えば伝わりますか?」

「いや伝わんないよ(笑)」

パントーンカラーとは世界共通の色の番号の事で仕事上、取引先に色を伝える際に便利だけど、日常会話で使うとは思わなかった。

「てか、自分に好きな色わざわざパントーンカラーで覚えてるの?」

「違いますよ!でもティファニーブルーの一八三七はすごく覚えやすいんですよ!一八三七ってティファニーの創業した年なんです!素敵じゃないですか!?」

池谷香澄がこんなによく喋る子だとは思わなかった。そして意外に天然なタイプなのかもしれない。普段は真面目で大人しくて口数も多くないのに、実はよく喋る性格で、天然。そのギャップに少し惹かれ始めていた。

ティファニーはやっぱり女の子なら憧れますよねー」

彼女はそんなおれの気持ちをよそにひとりで話し続けている。


それから仕事中も池谷香澄の事が気になって仕方がなかった。可愛らしいお菓子があると、インスタのいいね欲しさにインスタ映えを意識しながら写真を撮る森実悠の方が会社では重宝されるかもしれないけど、そんなお菓子でもお構いなしに大口開けて一口で食べてしまう池谷香澄の方がおれには魅力的だった。


半年も経つとおれの教育期間は終わり、二人はそれぞれ自立して働き始めた。そんな矢先に池谷香澄から告白された。

「え?おれ?」

正直最初はハニートラップか何かかと思った。でも一瞬でおれにはそんな妬まれるような地位がない事に気がつく。

「な、なんで、おれ?」

「長岡さんといると安心できるんです。なんでも話せちゃうし。職場恋愛ってダメですか?」

「い、いや、ダメじゃないと思うけど、なんていうか歳もひと回り違うし、社内の人にバレたら何かと・・・」

「別によくないですか?周りの目なんか気にしなくても。年齢は私気にならないですし、職場恋愛も禁止じゃないんですから、バレても問題はないですよね?別に他の人達にどう思われても悪い事してるわけじゃないじゃないですか?ね!だから付き合いましょうよ!」

正直断る理由はなかった。まあ告白してきたのは彼女の方だ。何かあっても大丈夫だろう。

こうして僕らは付き合い始めた。


付き合い始めの頃は上手く社内で接する事ができるか不安だったけれど、初めての社内恋愛は順調だった。社内に恋人がいるという状況は自分にとっては良い環境かもしれなかった。もともとカッコつけ気質のおれは、香澄の前で怒られないように資料提出の際などは念入りに確認する癖がついたし、何より職場に恋人がいるというのはそれだけで強いモチベーションにつながっていた。

付き合い始めてひと月ほど経過した時、いつものように外食をしていると香澄の方から意外な事を言われた。

「涼さんって結婚とか考えてます?」

その瞬間一気に血の気が引いて、一瞬であの瞬間にタイムスリップした。

「人のせいにばかりしないで、いい加減自分の人生を生きてね」

仁美に言われてあの一言が鮮明に再生される。

「結婚?い、いやまぁ考えてない事もないけど」

「なに、その煮え切らない返事?笑」

「いや、おれはもちろん結婚したいけどさ、香澄の事考えるとさ。だって香澄はまだ若いんだし、もうちょっと自由でいた方が香澄の為だとも思うし。そんなに急いで結婚とか決めなくてもいいのかなって」

「私のせい?そんな都合よく私を結婚しない言い訳に使わないで欲しいなー笑」

「え?」

「今の返事って私のことを思っているように聞こえるけど、本当は私のことを思ってるフリして、都合よく言い訳に使ってるだけなんだよなー。まっ、いいや!そんなに年齢の事気にするんだったらカラオケ行こ、カラオケ!」

「カラオケ?なんで?今から?」

「涼がいつまでもウジウジ年齢の事ばっかり言ってるからー。カラオケってなんだかタイムマシンみたいじゃない?その曲を歌ってるだけでなんだか自分の気持ちまで当時に戻ってるみたいというか。だから部長とか年配の人達ってカラオケ好きなんだろうな。歌ってる瞬間は当時に戻れるような、そんな錯覚がするからね。だから今日カラオケ行くの。同じ時間にタイムスリップしようよ」


「なんでも受け身なのがよくないんじゃないかな?涼は」

「受け身って何が?」

「なんでも受け身の姿勢だから涼はすぐに人のせいにしちゃうんじゃない?人のせいに出来ちゃうというか。私たちが付き合った時も私が強く言わなきゃ付き合わなかったでしょ?だからこれからは自分から動いてみたら?」

会話の途中で、香澄の見た目には似合わないアップテンポのイントロが流れ始めた。

香澄と初めてカラオケに行った時も彼女は自分なりの選曲をしていた。周りの目なんて気にしないで。彼女はいつでも彼女らしく自分の生き方を貫いていた。そんな彼女が入れていた曲は「I'm ALIVE」、歌手はMs.OOJA。自分らしく自分の歌いたい曲を歌う。彼女らしかった。

 

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報われない 楽しくもない

気付けば愚痴ばかり


結婚とか 仕事だとか

人それぞれだもん


言い訳ばかり

本当は分かってる

逃げてるだけじゃ

本当の明日は来ないこと


止まらないで このままじゃ終われない

まだ見ぬステージ 無限の野望を胸に

一度の人生なら 泣いても笑っても

顔を上げて 覚悟して 進め

I'm ALIVE


やるときゃやる タイプだとか

大器晩成とか


インドアとか 根暗だとか

人見知りなんだもん


言い訳ばかり

本当は変わりたい

殻を破れば

傷つくこともあるけど


止まらないで このままじゃ終われない

まだ見ぬステージ 無限の野望を胸に

一度の人生なら 泣いても笑っても

顔を上げて 覚悟して 進め

I'm ALIVE


止まらないで このままじゃ終われない

まだ見ぬステージ 無限の野望を胸に

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香澄は歌い終わると気持ち良さそうに、烏龍茶を飲んでいる。

「はー、やっぱこの曲最高!ライブとかで聴くとめっちゃ盛り上がるんだから、この曲!」

「香澄」

「ん?」

「ありがとう」

 

四月の始まりはまだ肌寒くて、春と呼ぶにはまだほど遠いような気もする。季節にちゃんとした境目なんてないんだろうけど、前を歩いているピカピカのリクルートスーツの子達を見てると、それでも今日はきっと区切りの日なんだなって思う。

みんな今日から生まれ変わるんだ!

おれは今パントーンカラー、一八三七の色に包まれた箱を胸ポケットに忍ばせている。

本当はわかってた。おれは周りから逃げてたんじゃない。おれはいつも自分から逃げてた。親だったり、周りのせいにしてたけど、本当はわかってる。自分が傷つきたくないから、自分を守るためにいつもおれは言い訳をしてた。

でも、

おれはもう自分の人生を生きる。

九月十八日、彼女の大好きな色が生まれた日に教会のベルを鳴らすんだ。

さぁ鐘を鳴らせ

がんがん打ち鳴らせ

海を見てる

初恋みたいなこの胸の高鳴り

宝物よ

忘れたくない

ねえずっと


失う痛みをこの胸が知るたび、怖くなってた、好きになる事。

三十六歳。

三十歳よりも四十歳に近い年齢。「彼氏いるんですか?」ではなく、「結婚されてるんですか?」と聞かれる年齢。周りの友達からたまに来る連絡と言えば、出産の報告ばかり。だからいつからかLINEが怖くなっていた。普段からそんなに頻繁に連絡を取り合う人なんていないからたまにLINEの通知が来ると、その内容は友達の結婚だったり、出産の報告ばかり。その度にみんなが先に進んでいるんだなと実感して落ち込んでいた。

大人になると友達に会う機会はガクンと減る。右肩下がりとか言うレベルではなく、書いて字の如く「ガクン」と減る(字を書く必要があったかはさておいて)。それはもう高校の頃の自分が聞いたら、きっとビックリしてしまうほどに。

だから大人になってもたまにわたしとご飯に行ってくれる友達はとても有り難いし、大切な存在だ。瞳はその中の貴重な一人だ。高校の同級生で同じ田舎、新潟から大学進学を機に上京してきた。大学こそ違ったが、東京でひとり寂しい夜を過ごす事がなかったのは一緒に支えてくれた瞳のおかげだ。お互い近くない家を行き来して、支え合った。卒業旅行に二人でパリに行ったり、恋が成就すれば泣いて喜び合って、恋が終われば泣いて悲しみ合った。学生時代から何も変わらない、なんでも話せる仲だった。

「なんか仁美雰囲気変わった?」

「男でしょ?彼氏?」

瞳の急な質問に思わず言葉が詰まる。

「ほらー、図星だー。耳たぶ真っ赤だよー。昔から仁美は恋するとわかりやすく可愛くなるもんねー」

この歳になると人から可愛いなんて言われる事はめっきりなくなる。それこそわかりやすく下心全開でくる居酒屋にいるおじさん達からは言われる事もあるけれど、純度百パーセントの「可愛い」なんて久々に言われた。

「で、彼氏かはわからないけど、好きな人がいるんでしょ?どんな人なの?年上?」

瞳にここまで見破られてるんだからしょうがない。わたしは覚悟を決めた。

「う、うん。実は好きな人がいるの」

「そんなのは仁美の耳たぶ見てればわかるってー!で、どんな人なの?」

「職場の男の子でね・・・」

「げ!もしかしてけっこう年下?」

「う、うん。二十六歳だから十個下かな」

その瞬間瞳は一気に顔が暗くなり、エスプレッソを一口飲むと意を決したようにわたしの耳たぶではなく、目を見た。

「その男の子は瞳の事好きなの?」

「え?そんなのわからないよ。でもなんとなくだけど恋愛対象としては見てない気がするな」

瞳は残りの一口サイズのチーズケーキと残りのエスプレッソを一気に飲み干し、少し強めに言った。

「年下はやめときなよ。向こうからきてるならまだしも。瞳が年上だから気を遣われてるのに優しくされてると勘違いして年下男子にハマっちゃうアラフォーたくさんいるみたいだよ」

「いやでも新発田君の優しさはそういう感じじゃないというか」

思わずフォローをしてしまう自分がいた。その時彼をフォローしていたのか、自分自身をフォローしていたのか。

「ごめんごめん。でも二十六歳の彼からしたら私達なんて立派なおばさんだよ。おばさん。この歳で年下男子と恋愛するなら最後に自分が相当傷つく覚悟がないと厳しいんじゃない?ねえ・・・」

瞳がわたしに何を言おうとしてるのかはわかっていた。

わたしは七年前結婚寸前まで話が進んでいた男性がいた。彼は会社の取引先の担当者で、何度か仕事を一緒にしていくうちに交際に発展し、付き合って二年目の記念日にプロポーズされた。彼の事はもちろん好きだったけれど、一つ結婚するにあたって気掛かりだった事が彼の両親が新興宗教の信者だったという事。もちろん人間誰にでも信仰の自由があるから、彼の両親が何を信じているかは自由だ。ただ結婚の挨拶に行った時、一緒に十八時のお祈りをさせられたり、帰り際に電話帳ぐらいの分厚い聖書のようなモノを渡されたり、挙げ句の果てにはわたしの実家にまでその冊子と謎の像が送られてきた時はかなり引いてしまった。そして両親からは結婚を反対され、なんとなく彼とも気まずくなって、そのまま結婚は流れたし、彼とも別れてしまった。わたしは彼が大好きだったし、結婚もしたかった。ただいざ結婚となるとそれは二人の話ではなくなる。「家族」がくっつくというのはそんな簡単な事ではないんだ。頭ではわかっているけれどそれからわたしは心にぽっかりと大きな穴が開くどころか、心がどこかに消えていってしまったようだった。

だから人を好きになったのはそれ以来の事。

「でもなんか良かったね!仁美このまま一生恋愛できないんじゃないかって心配してたんだから!笑」

瞳が笑い話に変えようとしてくれていた。瞳はもう二度とわたしに辛い恋愛をして傷つかないでほしいという優しさから、新発田君を暗に諦めろと言っている気がして、余計にそれがちょっとだけ悲しかった。

「あ、ごめん!もうこんな時間だ。そろそろ幼稚園に迎えに行かなきゃ!」

「今日はありがとうね。久しぶりに話せて楽しかったよ」

「こちらこそ!また恋バナ聞かせてねー」

「あ、ごめん!もうこんな時間だ!」なんて漫画でしか聞かないセリフだと思っていたけれど、漫画みたいに人生がうまくいっている瞳が羨ましかった。気の合う友達とは何時間一緒にいても苦痛じゃない。自分が高校生の頃に戻ったような気にさえなる。我に返れば、二人共三十台後半で、すっかり違う道を歩いているのに。

稲中さん、明後日の日曜日飲みに行きませんか」

その日曜日がもう明日に迫っている。


仁美が勤めているのはアパレルメーカー。そしてそのアパレルメーカーは東京の千駄ヶ谷にある。

そこに突如彼が入社してきたのは、今年の春だった。

「今日からお世話になります!新発田です!よろしくお願いします!」

イマドキの若者らしからぬハキハキした自己紹介、というのが第三印象。

随分背が高いな、というのが第二印象。

少女漫画に出てきそうなイケメンだな、というのが第一印象。

よくアパレル業界は不況だ、不況だと言われているが本当に不況だ。売上は年々下がる一方だし、それに比例するように採用人数も年々減っていて最近では新卒すら確保できなくなっている。そんな逆風の中で新発田君は会社に入社してきた。若い人なんて久しぶりだから部長達も扱いに困っているんだろう。

新発田君、身長はいくつあるの?」

「身長は一七六です。けっこう高く見られるんですけど、実際はそんな高くはないんですよね」

おそらく彼は生まれてから一万回はされてるんじゃないかという質問にも笑顔で答えていた。老若男女誰からも好かれそうなその笑顔はいつの間にか社内の雰囲気を明るくしていた。今日中にまた誰かに一万一回目の同じ質問をされる事だろう。ドリカムの歌のように、きっとこれから彼は何度も同じ質問をされていくんだろう、それでも彼は変わらずにあの素敵な笑顔で答えるんだろうなと思った。

席はわたしの隣になった。

稲中です。よろしくお願いします」

新発田です。よろしくお願いします。失礼ですけど、イナカさんってどんな漢字ですか?まさか、ド田舎とかで使われる田舎じゃないですよね?」

「違うよ、田んぼの稲に、大中小の中で、『稲中』」

「え!って事はもしかして」

「卓球部じゃないよ」

「え、あ、やっぱりそうですよね。でももったいないなー。その名字なら絶対卓球部に入るべきですよ」

「もうそのくだり人生で一万回ぐらいやってきてるんだけど」

「じゃあ僕で一万一回目ですか?ドリカム状態ですね!」

「バカにしてるでしょ?笑」

「してないですって!でもその名字珍しいですね。出身はどちらなんですか?きっと都内ではないですよね」

「実家は新潟だよ。新潟でも同じ名字は親戚ぐらいしかいなかったけどなー。あ、今どうせイナカだけにやっぱりド田舎に住んでるんだなって思ったんでしょ?」

「いや、ど田舎ってよりもTHE田舎っすね(笑)」

わたしは気がつくと久しぶりに社内で大きな声で笑っていた。彼の人懐っこくて、クシャッと笑うその可愛らしい笑顔は、失礼さを瞬く間に打ち消していた。


その日のお昼休み。みんなが一斉にランチに向かう中、新発田君だけが一人残ってモジモジしていた。

「どうしたの?ランチ行かないの?みんな行ったよ。お弁当あるならトイレの横にある休憩所で食べられるよ」

そう教えると彼は恥ずかしそうに、

「すいません、財布を忘れてしまって。実際に財布を忘れると全然愉快じゃないんですね(笑)」

「そんなサザエさんみたいな忘れ物する人初めて見たよ(笑)」

そんなサザエさんみたいなミスをする彼とわたしはランチに出掛け、それ以来毎回ランチは新発田君と出掛けるようになった。

稲中もついに独身卒業だな」

なんていう周りの冷やかしを華麗に左から右に受け流しながらもちゃっかりお昼休み前に化粧を直す習慣も出来始めた。彼とはランチの間色んな話をした。

「何でうちの会社に入ったの?」

「自分で服を作ってみたかったので!早く中国とかバングラデシュの工場に行って、自分で服を作りたいんです。色々探してみたけどこの会社が一番早くそのチャンスをくれそうだったので」

「え、て事はしばらくしたら中国とかバングラデシュに行くの?」

「まあそうなりますね。とはいっても随分先になるとは思いますけどね」

何となくずっとわたしの席の隣で仕事をしていると思っていた彼からそんな事を聞かされると急に自分の胸が落ち着かなくなる。

彼は本当に年下なのかと疑いたくなるぐらいしっかりと自分の将来のビジョンが見えている。自分が彼と同じぐらいの時に、しっかりとビジョンが見えていれば今頃幸せな結婚生活でも送っていれたんだろうか。


彼はスポンジのように何でも吸収してすごい勢いで仕事を理解していった。自分が疑問だと思った事はすぐにわたしに質問をして、メモを怠らなかった。おそらく頭の回転が早いんだろう。ある程度の仕事を理解した彼は、本質まで見抜いたようですぐに自分なりに効率の良いやり方に切り替えていた。どんなささやかな事でも教えてあげると、新発田君は丁寧にお礼を言う。その真摯さに仁美は胸が打たれた。こんなわたしでも少女漫画のイケメンキャラみたいな新発田君の役に立っている。そのことが無性に嬉しかった。


ある時のランチで新発田君がわたしに聞いてきた。

稲中さんはどうしてこの会社に入社したんですか?」

新発田君の急な質問に思わず会話が不自然に途切れる。わたしが新発田君ぐらいの年齢の時はおそらく何の抵抗もなく答えられただろうけど、今は答えられない。

「あれ、なんか僕変なこと聞きました?なんか稲中さん耳たぶ真っ赤ですよ?でもやっぱり夢とかあって入社したんですよね?どんな夢だったんですか?」

彼は純度百パーセントの好奇心で聞いてくる。そしてこの空気を破ろうとわたしは覚悟を決めた。

「パリコレに出したいの・・・」

言ってすぐに後悔した。何でこんな恥ずかしい事を十個も下の男の子に話しているんだろう。こんなおばさんが小学生みたいな夢を言ってどうするんだ。

「へえ!素敵な夢ですね!稲中さんならイケるんじゃないですか?私服のセンスだってお洒落ですし。それなら将来稲中さんがデザインした服を僕が作りますよ。それでパリに挑みましょう!僕もそれまで頑張らなきゃですね!」

自分の夢を応援してくれる人がいるなんて思わなかった。自分のどうしようもなく大きな夢を笑わないで聞いてくれる人がいるなんて思わなかった。「そんなの出来ないよ」って言われない事が初めてだった。

「え、笑わないの?」

「え、今のボケなんですか?だとしたらおもしろくないですね(笑)」

「何の才能も無いわたしがパリコレに服を出したいって言ってるんだよ、そんなの無理じゃん」

稲中さんは自分の夢に対してわざわざ疑いを持ってるんですか?自分が真剣に考えてやりたいと思ったんなら別にいいじゃないですか、そのまま追いかければ。なんか人の夢をいちいちバカにするような人がいますけど、そんなの気にしたらダメですよ。そう言う人達は結局自分の夢が叶わなくて、自分の仲間みたいなのを探してるだけですから。バカにバカにされたっていいじゃないですか。僕は稲中さんの夢、応援しますよ。あっ、そういえばそういう夢って『文字』にすると叶いやすくなるらしいですよ。理由はよくわからないですけど。忘れないうちに僕も手帳に書いておこうっと」


それから仁美の気持ちは大きく走り始めた。一度走り出したらその気持ちは止まらなかった。

仕事の合間を縫ってもう一度服飾の専門学校にも通い始めた。就活の為の授業ではなく、自分の夢の為に。

仕事も今まで以上に一生懸命こなし、毎日が充実していた。それでも仁美にとって一番充実していたのは、ランチの時間である事に変わりはなかった。

季節があっという間に駆け巡り、一年の仕事も落ち着き始めた二月の最終金曜日。

私は急いで専門学校に向かった為、会社に財布を忘れてきてしまった。いつかの新発田君みたいだなと思いながら会社に戻ると、部長が一人残っていた。

稲中?どうした、こんな時間に?」

「ちょっと忘れ物しちゃって、部長こそどうしたんですか?」

「いやちょっと社長に呼ばれてな、新発田君異動だってさ。四月からバングラデシュだって。若いうちから工場に行かせたいんだと」

部長がさらっと告げる。

「最初は三年ぐらいここにいる予定だったんだけどな。ま、確かにあの仕事の物覚えの良さなら若いうちに行かせたいんだろうな。本当寂しくなるな。稲中もランチが寂しくなるだろ?送別会とかについてはまた来週にでもみんなと相談だな。じゃ、お疲れさん」

部長がそう言い残して帰った瞬間胸が急に重たくなった。胸の中に急に鉛のようなものが流れてきて、胸いっぱいに広がった。

四月?

いつまでもわたしの隣にいると思っていた。本人だってこんな早い異動は想定してないはずだ。まだ日本にいたいはずだ。やり残した事だって。でも考えれば考えるほど、それはわたしの希望に過ぎなかった。

自分の財布の事なんてとっくに頭から消え去ってその場に立ち尽くしていると、また扉が開いた。部長が忘れ物をしたのかと思うと、そこにいたのは新発田君だった。

「あれ、稲中さん、先に帰ってませんでした?」

新発田君はいつもの調子で仁美に話しかける。新発田君はすでに内示を受けているのだろう。部長が知っていて、さすがに本人が知らない訳が無い。

「ちょっとね、財布を忘れちゃって」

今この瞬間に改めて彼の口から直接事実を告げられのが怖かったわたしはとっさに本来の用事を思い出した。

「え!・・・実は僕もです。ていうか稲中さん前に僕が財布忘れたら『そんなサザエさんみたいな忘れ物する人いるんだ』って言って馬鹿にしてきたのに、稲中さんも同じミスしてるじゃないですか!」

本当は面白いはずなのにわたしは口角すら上げられなかった。とにかく彼の口がこれ以上動かないで欲しいと願っている。

「ほんとだね、自分でも恥ずかしいよ」

彼の目を見てしまうと、何かが溢れてしまいそうになるからひたすら自分の鞄を見ながら答えると、

稲中さん、明後日の日曜日飲みに行きませんか」

思わず振り返ると、

「何か食べたい物、ありますか?」

と彼は言った。行きつけのお店に連れて行ってと、仁美はかすれるような声でリクエストを告げた。


瞳と別れたあと、カフェのすぐ横の噴水前のベンチに腰をおろす。

新発田君は、きっとわたしにさよならを言うために、飲みに誘ったのだろう。

親友にも応援されない恋。諦めなきゃいけないという事はわかってる。でも。

ふいに涙がこみ上げてきた。

部長から新発田君の異動を告げられた時から、いつもと変わらない様子で接する新発田君に対して平静を装って会話をしていた時から、親友に恋を応援されなかった時から、わたしはずっと我慢していたのだ。

結婚がダメになった時も確かに悲しかったはずなのに、今の方がずっと悲しい。

わたしはこんなにも新発田君が好きだったんだな。

三十六歳にもなって、こんな気持ちになるなんて思わなかった。恋愛で涙をこぼすなんて思わなかった。

わたしはふと自分の手帳を広げる。

六月二十一日。その日の手帳には控えな大きさで「パリコレ」とだけ書かれている。はじめて誰かに応援してもらった夢。はじめて誰かに背中を押してもらった夢。そしてその日の手帳には「Ms.OOJA 海を見てる 配信」と書かれている。

そういえば最近は仕事に、専門学校と忙しくて音楽もろくに聞いていなかった。気分転換にと、わたしはイヤフォンを耳にはめる。

 

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天気が良いからって 連れ出してくれたの

もう何年ぶりだろう

学生みたいに 電車を乗り継いで

ただ君に導かれるまま


失う痛みを この胸が知るたび

怖くなってた 好きになること でも 今


海を見てる 君を見てる

目と目が合わなくても

言葉はなくても

重ね合う渚のように

同じ気持ちでいれたら


夢を見てる 君と見てる

素直なままで二人

寄り添いあえたら

ずっと何年先までも

僕ら歩いていける

いつまでも どこまでも


スニーカーのままで波に走り出す 君

振り向いた笑顔 眩しいよ


初恋みたいな この胸の高鳴り

宝物よ 忘れたくない ねぇ ずっと


海を見てる 君を見てる

その名前を声に出し

つぶやいてみる

たったそれだけのことで

こんな満たされていくの


夢を見てる 君と見てる

永遠なんてきっと

どこにもないけど

好きな人が好きでいてくれる こんな奇跡を

待っていた


海を見てる 君を見てる

目と目が合わなくても

言葉はなくても

重ね合う渚のように

同じ気持ちでいれたら


夢を見てる 君と見てる

素直なままで二人

寄り添いあえたら

ずっと何年先までも

僕ら歩いていける

いつまでも どこまでも

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わたしは新発田君がいたから、綺麗になりたいって思えたし、夢を追いかけようと思えた。

恋する気持ちも思い出せた。

「一緒にバングラデシュに連れて行って」とも、「いつまでも待ってます」とも、迫るつもりなんて毛頭ない。

ただ「十ヶ月間、好きだった」と伝えるだけ。とにかく新発田君が素敵だったと伝えるだけ。それだけでいいんだ。

別にこの恋が実らなくたっていい。


わたしはただ、

夢を見てる、君と見てる